現在、生物学分野では国際論文だけが業績となるため、教授など安定なポジションにつくまでは、国際論文以外にデータを公開するのは、以下の点で危険性が高いです:NatureやScienceといった、大きな業績と捉えられ、プロモーションに役に立つ国際論文については、一度公開されたデータは論文には使えず、また論文に掲載されたデータは非常に再公開しづらいため、論文以外にデータを公開することは、厳しい就職・プロモーション環境の中ではマイナスの要因が強いです。 一方、次世代シーケンシングなどのデータは、論文公開前にオープンアクセスのリポジトリへの登録が求められるため、最も遅くとも論文公開と同時にオープンアクセスとなり、誰でも再解析できるなどコミュニティーに自動的に貢献できる体制となっています。ただし、この例は登録する生データが膨大で、論文に掲載するのはそれを解析したデータであり、登録データと論文掲載データに大きな隔たりがあるため、可能であると考えられます。 他人のデータを勝手に流用し、論文投稿するケースが生じるおそれがある。しかし、投稿された論文誌の編集委員会や査読者では、他社データを流用した論文かどうかのチェックは困難である。また、掲載後に、流用だとの訴えがあった場合に、その調査のリソースを確保することは、現在の仕組みでは困難である。従って、本当に投稿者が行った研究結果なのかが判断できない論文が入り交じることになり、かえって技術の発展を阻害するかもしれないが、現実的な対策手段が現状ではない。もし公開を促進するのならば、先にこういいった点への対策が必要と思われる。 1)公開データの利用に際して、処理データ・解析データだけでは、品質や妥当性を判断できない場合があります。このようなケースでは、処理前の生データの公開も重要になると思います。 2)公開データの品質・妥当性について、様々な議論・批評が発生する可能性があります。このような議論・批評が客観的に見て妥当であれば、とても有益なものになりますが、その逆のケースもあり得ます。このような議論・批評の妥当性を評価する仕組み、客観的な評価の結論を誰が見ても知ることができる仕組みづくりが重要になるのではないでしょうか。 例えば、先のSTAP細胞に関する様々な議論・批評の発信について、私は全くの門外漢直なのですが、議論・批評・評価の論理性、その結論の客観性、情報の透明性がどこにも見えず、国民として非常に残念に思っています。このようなやり方が当たり前になってしまうと、本来存在するかもしれない可能性が排除され、我が国の科学技術力の低下の一因になりますので、前記のような仕組みづくりをご検討いただければと思います。 以上 NASAのリモートセンシングのデータ、あるいは日本の気象庁のデータなどは、データ公開と利用という点で非常に優れたシステムになっていると思う。海外ではData Managerといったポジションの方が個別のラボにいる場合もあり、データ公開を進めるためにはそういった支援が必要ではないか?論文を書いたあとのデータ公開については、データを利用する際にその論文を引用するというルールが徹底されれば、もっと進むと思う。その一方で、論文化されていないデータまで公開を求める動きについては、賛同しない。データを利用する立場で考えても、論文化されていないデータはデータの質に不安があって、利用したくない。 アカデミックな論文に関しては、短期的な業績が求められ、かつ業績の質を掲載誌のインパクトファクターで測るような状態である限り、論文の出版前にデータを公開することは自殺行為であるので不可能と考える。 一方で、主に税金から由来する科学研究費を使って行った研究発表の成果を、特定の商業出版社と契約した人だけが見られる状態で「公開」することは、税金の使途を特定出版社の利益に利用することになり、望ましくない。米国がNIH研究費を使った研究のPubMed Centralへの公開を義務付けているように、少なくとも公費を用いた研究成果は公的なリポジトリで公開することを義務付け、それをしなければ研究費の返還を義務付けるべきではないか。 企業からの成果に関しては、まず知的財産化できるかどうかが第一に必要とされるため、純粋なオープンサイエンスを推進することは不可能に近いと考える。 あとから似たような実験をされ,自分の論文の価値が低くなることがないように,公開日などの情報管理が重要。 他の研究者が後から行った追実験や似たような実験と,公開データとの実験条件の差異により,公開データが間違っていると揶揄されるのは問題になると思います。 オープンサイエンスについての方向性について、下記の2つの観点から、私自身は非常に否定的である。 ・研究をすればするほど(意図しない)作業量が増えることについて、日本の研究者の競争力を大幅に損ねると考える。現状で、高いアウトプットの研究者は、給与などでの特段の優遇は為されていない。このような状況下で、いわば「罰」に近い形で作業量を増やすことの危険性について、政策決定に係る人が理解していないことに、絶望的な危惧を感じる。 ・データ管理や盗用の危険性について、大きな危惧がある。我々が一方的に公開すれば、他国からすると、盗用などを行いやすい状況を、わざわざ研究者が時間を割いて整備することになる。また、盗用などが生じた場合、誰がその損害を補填し、賠償するのか。また、人員などを整備するとしても、そのための予算は科学技術予算から投入される。ただでさえ毎年減少する予算からこのような出費を行うことについて、合理性を全く感じない。 いずれにせよ、このような議論が生じることそのものが、政策決定の担当者が、研究現場の実態に対して無理解であることを示している。深い反省を求める。 オープンサイエンスについては基本的には賛成であるが、利用者に利用条件や知財権、著作権などをきっちりと守ることができるように整備することが重要と思う。 この先データ等の公開は進んでいくべきだと思います。 そのたえの手順が分かりやすく案内されており,かつそれを行う機関がきちんとあれば,もっと利用は進むと思います。 また,利用する側の意識もきちんと教育される必要があります。日本は倫理的な教育が,世界的にみてかなり遅れています。特に人のデータを扱うことに伴う倫理的配慮について,ほとんど学生に教育されていませんし,教員でも知らない人が多くいます。現在海外の研究機関で研究を行っており,外から見ても日本の学問レベルは高いと思います。しかし,データの扱い,論文の剽窃等,意識の面でグローバル・スタンダードに達しておらず,そのことが日本の学術に関する信用性を著しく低めていると感じています。 サイエンスの進歩において、オープン思考は非常に良いと思う一方で、万人が同じレベルの秩序、倫理観を持っているとは思えず、不利益が生じるリスクが懸念される。万人とは、日本国内の人々という意味でも千差万別だと思うし、国ごとの倫理観念の地祇はもっと深刻だと思う。 論文やデータの公開はそもそも公知化を目的とするものなので、問題はないと思うが、一方で、知的財産やノウハウについては各機関において公知にするのか保護するのかしっかりと定め、管理されるべきものだと思います。 データの捏造やコピーアンドペーストなど、余りいい話題を聞かないこともありますが、論文やデータの公開,オープンサイエンスなど公開して、みんなで議論することは、科学の進展には必要不可欠と考えます。 データの記録と公開について 最近、生命科学などにおいて、論文成果の適切性が問われている事例が指摘されている。論文の著者は適性の指摘がある場合を考え、実験、解析あるいは数値計算について、常にデータ収集ブック(航海日誌)を適切にとっておくのが常識である。 機密事項が含まれている場合 企業、他機関との共同研究の場合、機密情報が含まれるケースが多いので、論文やデータの発表においては先方の責任者の許可を得た範囲で公開するのが常識である。 オープンサイエンスのすすめ 自分の専門の論文はジャーナルなどから入手できるので問題はない。他分野の方や科学者を目指す方に対しては、わかりやすい記事にして公開、オープンすべきである。 データの公開には消極的です。すでに論文で発表されている内容であっても、それを改ざんした上で盗用され、新たな論文として利用される可能性が排除できないためです。同分野の研究者であれば、データが何を意味しているか、よく理解できます。近年はデータ改ざん・捏造が増加する傾向にあるので、余計に懸念が強くなります。 一方、発表論文の公開化は賛成です。大学間格差が大きく、閲覧論文数によって差別があると、良い研究も推進できなくなる。研究者が閲覧できる論文は格差をなくした方が研究が促進されるのではないかと思う。 データの盗用防止 データの不確かさというのは常に存在するので、揚げ足取りにならないように進めてほしい。 データをオープンにして間違った利用をされることが懸念される。 データ公開によるメリットも理解できないことはないが、産業界にとっては、刊行物となった論文については著作権上の課題が大きな壁であり、自社データの公開については、非常にリスクが高いと言わざるを得ない。 データ公開は、知財の垂れ流しになる可能性がある。 研究者は、オープンになっている論文やデータは、公開されているのだから、勝手に自由に使ってよいと思っている人が多い。 適切に引用したこと、引用したデータをリスペクトすれば、問題ないが、公開データにヒントがあって、それを自分が発展させたのだから、自分のオリジナル研究にする人が少なくない。 引用の管理が、非常に重要である。 デジタルデータはどれだけセキュリティをつけても盗用可能なので、論文や学会要旨集以外で外に出すことに全く意義は見出せないので、大学のレポジトリも辞めて欲しいと思っています。 テロ、軍事へ活用されることを防止できるシステムの構築が必要と思います。 異分野横断的な研究の場合、特定分野の専門用語が誤解されたまま引用されること、変化するにも拘らず初期公開結果が、そのまま長期間用いられることがあり、警戒しています。 医学領域ではインフォームドコンセントの兼ね合いで難しい点が多くあると思います。特に個人情報保護法の改正に伴い、さらに複雑化していくと思います。 引用無しのデータ使用がやや心配です。 嘘の情報を公開して、ライバルの研究を妨害する輩が必ず出てくると思う。STAP細胞のような不正行為を防止しようとしても、新たな不正行為が蔓延するだけで労力の無駄だと思う。不正行為に関与した時の罰則を重くするのが一番コストパフォーマンスが高いと思う。 科学の進歩には競争と共有が必要であり、効率的な発展のためにはオープンサイエンスの考えは重要であると思います。 一方で、実際に(まめに)オープンサイエンスに対応するとなると、現状は十分なサポートがないことが多く、自身の研究時間等を削ることになり難しいというのも本音です。 著作権の問題等もやはり気になります。 上記の問題を可決する、補助的な仕組みができると非常に助かります。 科学技術を探求する本質的な目的は、「人類の発展への貢献」だと思います。 研究者は、この目的のために研究を実施し、成果を論文にまとめ、世に公開します。 論文がより多くの研究者の目に触れることで、より議論が深まります。 論文やデータのオープンサイエンス化は世界中の流れではあることはもちろん、科学探求の目的を達成するために理想的だと思います。 日本の学会でもオープン化の試みがなされていますが、 Optical Society America (OSA)のOptics expressのように、 主要な研究が集まるような仕組みがあると良いと思います。 一方、研究成果がより多くの人の目にさらされることとなるため、 悪用、データ改ざん、メディアや偏向団体による悪意のある引用等、 論文の権威を利用したデメリットも考えられます。 このため、オープン化には、良く練られた利用規約の整備も不可欠だと思います。 企業で研究開発を実施している者です。 オープンイノベーションという言葉を聞かない日はなく認知というレベルでは進んできましたが、オープンにデータ公開やオープンサイエンスの取り組みは出来ていません。現実的には取組先等と共同研究契約や秘密保持契約等を締結してクローズな関係で機密情報をやり取りすることが中心です。 データ公開やオープンサイエンスに対しては、知財権の担保や機会損失といったリスク意識が高く、真の意味ではオープンイノベーションに対して企業内で活用に至る正しい理解と意思が醸成されていないと感じます。比較的保守的な文化なため、他社の成功事例等を参考にする企業と考えます。 公開やオープンサイエンスによる事例が蓄積され、取り組み事例等をご紹介頂けると幸いです。 企業研究ではデータは貴重な経営資源であり、研究成果の社会還元を使命とする大学とは、立ち位置が異なります。相互事情に配慮したオープンサイエンスのポリシーが必要になると考えます。 企業研究者から見た場合、会社の利益に反するようなオープンサイエンスは難しいと考えます。 企業研究者において、データの公開と会社の利益とはほとんどの場合相反する関係にある。 オープンサイエンス自体は、学術の発展に有意義なものであり歓迎したいが、研究費負担元が企業である者にとっては自ずから限界がある。 産官学共同研究がもっと盛んに実施されると、オープンサイエンスも広がると考える。ただし、オープンサイエンスは国内外問わずであるであるから、企業利益、税金を使用して研究している点での国益をどのように守っていくか、知財面での保護の仕組みを十分に議論する必要があると考える。 企業研究者の場合、研究に関するすべてが企業に帰属していて、研究者には何も権限がない。企業研究者が退職した場合は秘密の有無にかかわらず企業内でのあらゆる情報は企業研究者の権利がないことを承諾することを求めら、同意した。 したがって、定年退職した現在において本件の問いに答えたが、個人としての考えを示しただけであることを理解いただきたい。 基礎研究やオープンイノベーションのように同分野/異分野の研究者達との繋がりや拡がりが重要な開発もあるので一概には言えませんが、企業の研究開発は、特定の顧客情報を含むケースが多く、基本的にオープンサイエンス的なスタンスを取りにくい実態があると感じます。 機密性や特許等の絡みもあるので、よく議論が必要であろうと思います。 競争力に直接かかわるデータの管理。 基礎科学であっても問題であろうが、工学や出口に近ければ近いほど、データを不特定多数に公開することのデメリットの解決イメージがわかない。 研究は専門性が高いものであり、データのみでは異分野の方は正確に理解できないと思う。誤解が生じることも多くあると考えられ、データの公開は慎重に行うべきである。 一方、論文については、(当たり前ですが出版社などが了承するのであれば)積極的に公開してよいと思う。 公開した日付が明記され、それが改ざんできないようになっていれば誰が最初にそのデータを題したのかが明確になり、盗用の発見も容易になるので、オープンサイエンスが普及する可能性はあると思います。 公表したい研究成果がでても,オープンにするための資金と時間が必要となり,実際できないのが現状である。人材および資金面でのバックアップがあれば,もっとオープンにできる研究成果が増えるものと思われる。また海外から研究アイディアを盗まれる可能性も多々あり,論文を書く前にオープンにすることはありえない。 今回の質問事項を追ってみてみると,オープンにする場合の,最初の研究のオリジナリティの担保が保証されるデータの仕組みが必要である気がしました. 日米貿易摩擦の時のように,半導体技術が流出したがために陥っている大手電機メーカのようなことが,学術の領域で起こらないかを懸念しています. 今後、情報公開は進むと思われるが、すべてを公開すると、アイディアや独創的な手法も模倣される可能性があるので、公開内容を十分に注意する必要があると考えられる。 最近、所属機関への隣国からのアクセスが多く、データを無断で引用されないか少なからぬ脅威を感じている。 私の分野では、基本的に論文未掲載のデータをオープンにすると、発表済みデータ(発表済み研究成果)とみなされ、以後、それに関する研究成果を論文にできなくなります(「研究の新規性の保証」と「重複発表の禁止」のため)。そのため、データを公開することはほとんど稀で、公開されているデータのほとんどは発表論文で使用され、著作権上問題のない図表ばかりです。 また、データの盗用の問題が常にありますので、分野としてはデータの公開には積極的ではありません。 実験データを用いたディスカッションはとても有用であるが、短期間での研究業績が求められる現在では、競争の激しい分野において、論文発表や学会発表をする前の実験データ公開は、特にインターネットを介した公表については現実的に非常に難しいと思われます。 実用化研究の場合,商用利用が重要であり,ライフサイエンスの場合,海外での商用利用も考えられる. 先端技術の場合,無断販売がすぐに行われる.自分も無断販売されている. 研究のお金と時間が係る部分の成果をオープンにすることで,工業製造と市販を労せずできるようになる. 当該国で知財を取得しても,無断販売は後を絶たないので,この部分の対策ができているのであれば,良いシステムだ思うが,そうでなければ,実用化研究の場合,企業にリスクを負わせるためのシステムになってしむ懸念がある. 社会科学系の研究においては、データを取得する際に多大なコストを要します。それ故、適切な手続きで取得されたオープンデータが活用できるのは、研究の発展上、極めて有効だと思います。 その反面、個人情報の管理や倫理の問題など多くの課題があります。それ故、法整備やインフラを含めた仕組みの構築が必要だと思います。 既にマーケティングの領域ではPOSデータを部分的に公開し、解析を競うコンテストなども開催されていますが、企業で取得されたデータの部分利用、あるいは(データベースを介した)売買などがあっても良いのかもしれません。 正解がすでに分かっている,あるいは解があるかもわからない問題に取り組むのが研究であって,本当にあっているのか半信半疑で進めるものだと思います.最近の風潮として,明らかな不正はダメであるが,細心の注意を払い,そのときの個人のベストの知見を導入しても間違えることはあります.間違いを荒さがしして不正として扱うような傾向が,逆にオープンな環境を阻害しているように思える. 生データやそれに近いものをやみくもに公開することは理想論としては理解できるが、非現実的と思う。理由は、公開のための労力が大きすぎてその割にニーズが少なく、結果として研究にさく時間が制限される。すでに、研究不正の事件の多発から、論文投稿の段階で不正防止のために記述を求められる項目が増大しており、あまりの多さに投稿を回避した雑誌もある。むろん、不正を防ぐための何らかの処置は必要で、理想的には、生データすべての公開や、各研究者の具体的な貢献などを詳細に提供する、といったことがあることは理解している。だが、行き過ぎは研究活動を阻害する。不正のある論文であれば、それが発覚すればその研究者に対して厳正に対処すればよい(悪質であれば当然研究者としての道が絶たれるべき。生データを保存していないことも一種の不正とすればよい。)。また、データの扱いに問題があって誤った結論を導いた論文であれば、再現性がないので自然と淘汰され、忘れられていくはずである。非常にインパクトがあり影響が大きいと予想される論文であれば、自然淘汰を待つことは得策でないので、あらかじめ生データの提供などを厳しくやるのは手だと思う。すべての画一的に対応するのではなく、論文の影響力やデータの質などを考慮しながら、どこまで生データ等の公開を求めるかを決めていくことが重要と思う。 また、電子的なデータや、電子化できるプロトコール(これも簡単に電子化できる機械などがあればの話だが。人の手で一つ一つ電子化するのは現実的でない。)などについては、それを保管できる公的なシステムがあってもよいとは思う。各研究室で管理していると散逸してしまうなどの恐れが高いが、簡単にアクセスできて保存だけはしておけるシステムがあれば、研究者にもそれほどの負荷がかからず現実的ではないかと思う。 積極的に進めるべきであるが、データ利用という観点よりも、研究の公正性を推進する、担保するという意味でも大切 単なるオープンデータでは、その信頼度が問題となると考えます。よって、参考程度には利用しますが、それをそのままに鵜呑みはできません。 自身の研究データのオープン化では、やはり論文への盗用や知財面が最も気になります。 もし、盗用や知財についての予防ができればよいかと思いますが、現時点でのオープン化は、そのための対応はできていません。本当は、もっと早くオープン化してすべての人に情報を与えるのが、サイエンスのためには良いと考えますが、当面は論文化と知財の確保が最優先されると考えます。 知的財産権データーと論文データーのすみ分けについては、利権の考え方の違いがあると思いますので、企業と研究機関のデータの見方や使用方法についてのギャップを考える必要があるように思います。 知的所有権の問題は、私には非常に難しい。転用したい場合に著作権者(出版社)に許可をいただく連絡(所定のもの)を送っても返信が得られない場合もある。 ややこしい問題に巻き込まれたくないと考えているので、そういう意味でデータの公開は積極的に行いたいと思わない。 著作権の帰属に関するルールが、電子データとなった際に曖昧になっていると感じている。 著作権や知的財産の権利の行使、また逆に訴えられた場合の対応などについて公開する者およびその所属機関が周知しておく必要があると思われる。 盗用が一番懸念される. 当方の専門は臨床医学であり、研究データの一部は患者情報を含んでいる。患者情報を含むデータ(個人を特定出来ないようにしたにせよ)を公開する際には、データの元である患者の承諾の必要性はどうか?また、一度承諾し、データ公開後にそれを撤回した場合の措置はどうすればよいのか?一度拡散したデータを回収するのは事実上不可能であると思われる。 特にありませんが 工学分野では、企業のデータが多く含まれるので この取り扱いが重要と考えます。 特に生命科学分野は方法論からデータの細部まで全般的に公開できるだけ公開するべき。 実験ノートの公開も義務付けても良いくらい。 もちろん其の労力は大変なものではあるが、それを国のレベルでサポートし、とにかくデータの再現性を重視したシステムを作ることが急務。 もう一つは健全な研究を進めるための常識的な教育(捏造という意味ではなく)が必要。 特許, 知財は貴重な情報であり, その対価は企業・国の発展, 競争力の向上や成長に不可欠です. 過度のコンプライアンスやシーズ段階で制約があるとその成長の妨げとなると考えています. このため, フレキシブルな研究推進可能な体制が必要だと思います. 日本の場合は, 米国のように特許収入でアカデミの研究資金が集まるような体系ではないため, 成果のすべてを特許にするのではなく, その価値を見極めながら戦略的にすることが重要だと考えています. そのため,アカデミア, 企業ともに特許や情報の価値を判断できる人材がこれから益々, 必要かと思います. 日本における研究活動の国際競争力を高めるための施策として、オープンサイエンスの思想は有効であると考える。 一方で研究者個人の懸念事項として、情報を公開したことにより、自身の研究が妨げられること(第三者に先行を許す等)があるように思うので、情報公開した人が残念な気持ちにならないような配慮が、仕組みとしてあると良いと考える。 閉鎖的な組織の中で研究を行い続けることが必ずしも良いことでは無いし,研究成果の発展に悪影響を及ぼすおそれがあることは承知していますが,他者の研究成果を無断・無償で使えるようにするのには違和感があります。私が電気メーカの研究部署に身を置いているので感じることなのかもしれませんが,「工学」は製品に近いので,データ公開やオープンサイエンスが適さない分野であるようにも感じています。 本人の論文等での公開より前にデータを公開することは避けた方が良いと思う。 ただ、私自身が研究現場を離れて久しいので、このアンケート調査に適切では無いとも思います。 民間企業に所属する研究者にとって論文の無償公開は特に問題なく,学会・出版社の姿勢次第と考えられる。一方データの公開については,秘密保持等の観点から困難と思われる。 面倒なので、基本的にはやりたくない。 実際にデータを集め論文書く、以上の仕事が増えるのは好ましくない。 利用する側のルールの遵守とリテラシーの問題が懸念事項である。 適切な教育の行われていない大学院生、研究者の問題が取り沙汰される中で、 高等教育の質の問題や、研究大学と(社会人)教育大学の分離などと 連携させて整備してはどうか 理念は理解できるが現実には難しい気がする (フリーライダーの問題など) 例えば観測データの公開を考えたときに,データが観測値の生でないかぎり,加工作業に伴いさまざまなノイズがデータに入る余地がある.データ品質が明確でないものを使う場合のリスクだけでなく,提供者側もいったん公開後に誤りがわかった場合の対応が必要となる.その労力をどのように低減するかという仕組み(ワークフローを含めた)はある程度,標準化したほうがよい分野もあるのでなだろうか.利用規約に盛り込むような対処だけでなく,本質的な議論がまだ十分されているのかどうか,知りたいところである. 論文によって成果発表がなされた後のデータならば,なおかつそれが普遍的なデータであれば,公開をすすめてゆくべき.そのときに,同種のデータは同種であることが分かるように,データベース化することが重要.データベースが適切に構築されるのか,つまりメタデータの出来・不出来でデータが生きるか・死ぬかが決まると思う.専門的なデータでさえデータベース化は難しい.多様な専門分野からのデータを効率よくデータベース化する方法はあるのだろうか?他者が望むデータを効率よく探し出せるだろうか?データベースが巨大化するほど難易度が上がる.そういった分野の発展にも期待する. 論文に記されていないデータについて、補足としてWeb上で閲覧できる場合があるが、 第3者が悪用して、別の論文に投稿する可能性がある。また、それをチェックする 機構が充分とは言えないので、データの公開についてはオープンにしないほうが良いと考えられる。 出版された論文を課金なしでダウンロードできるようになるのは、研究を推進する上で大変ありがたいが、、 その分の経費を、投稿料や検索システムの使用料など別の形で跳ね返るので、難しい問題である。 論文のオープンアクセスについて、現状大きな問題はないと考えているが、雑誌によっては掲載料が高額となり、研究予算の関係で掲載できないということが起こり得る。論文掲載を研究費で買うようにならないよう、注意が必要と考えている。 データの公開に関しては、これまで考えたことがなかった。また、物性物理の分野では一般的ではないと思う。生データを公開しても他研究者に理解することは難しい。理解できるように整えるのは、時間的にかなり負担である。また、結果を分かりやすくまとめたものが論文であり、生データを公開する意味が分からない(この点は、分野によって事情が異なるのかもしれません)。 一方、研究不正防止の観点から、生データの一定期間保存は重要だと考えている。 論文のオープンアクセスは賛成するが、 論文以外のデータを公開することに関しては、 自身の研究分野においては、違和感がある。 知財や著作権が保証されるのか、 研究室のオリジナリティの基盤となる「蓄積されたノウハウ」を公開していいのか、 未だ十分な議論と環境整備は為されていないと感じる。 論文のオープンアクセスは所属機関が購読していない場合でも、論文が読めるために便利ではあるが、論文投稿する側としては投稿料が高額すぎて、逆にメリットが無い。データの公開はより早い論文化と情報共有という意味ではサイエンスの発展に寄与する物かもしれないが、一方で研究成果を盗用される危険もあり、現状ではあまり魅力的には感じない。 論文のオープンアクセス化には賛同します。 データの公開は、誰がどういう目的でということがわかった上で、論文化時に引用等してもらえるなら歓迎します。 オープンサイエンスは、理想的ではありますが、雑務に追われる現状ではとてもそんな作業に割ける時間も費用もありません。また、専門家以外には正しく要約することはできないと思います。 さらに、せっかく苦労して得たデータを論文化前に公開することは、研究資金が潤沢な米国のラボに後から追い抜かれる危険を高めるだけの何の得にもならない施策だと思います。プレプリントサーバーも徐々に生物学分野に広がりつつありますが、物理学や数学分野のようにその存在が広く認知され、そこでのオープンな査読プロセスが一般的になるまでは、リスクが高すぎて利用は控えざるを得ないかと思います。 論文のオープン化は大いに賛成。出来る限り多くの人が無料で読める環境にしていく必要がある。 また,出版バイアスを改善していくためにも,ネガティブデータ (主要なその分野で影響力をもつ先行研究と矛盾する結果や,ハッキリとしない結果) を有する論文の公開も積極的に行われるべき。 しかし,データそのものの公開については,心理学・医学・人間科学分野では,倫理的問題から難しいケースもあると思われる。目的外利用はしないと言う説明の上,同意を得て参加者からデータを得ているので,過去のデータを勝手に公開するわけにはいかない。 また,どのように取得したデータかが正確に伝わらないと,再利用時の間違いも生じかねない。特に,どのような点を検討するかによって,その従属変数に影響しうる要因は変化する。自身の研究における従属変数には影響し得ないため取得していなかったあるいは論文上に記載しなかった変数が,他者による本来の目的外の解析では,大きな影響を与え,データをゆがめる事も懸念される。 上記の点が解決できれば,データの有効利用という点でデータのオープン化は望ましい点も多いと思われる。 論文の公開,オープンアクセス化については,積極的に行うべきと考えるが,論文公開前のデータについては,新規性が失われることが懸念されるため,特に特許性の高い研究については行うべきではないと考える. また,公開済みの論文に関する生データ等についても,公開により誤解や誤用を生む危険をはらんでいるため,慎重になるべきと考える. 論文の公開は、重要であると思うが、論文発表前にデータを公開することには否定的である。 論文の信頼性を高めるためにはデータの公開は必要と思うものの、著者が気が付いていない技術情報について、無断使用(引用等もされず)される危険性があることが心配である。 研究者のモラルに関わることではあるが、公開情報へのアクセス者を特定することは必要であるが、それだけでは十分でなく、アクセス者からの二次拡散があると思うので、安易に無制限に公開することは良くないと思う。 論文は既に公開されているので問題ないが、そこへ至るまでのノウハウ(今回の調査のデータに該当すると思う)まで公開するのは、企業からの視点では問題になると思う。 論文やデータの公開が進むことは非常に望ましい方向だと考えております。知的財産などの問題をうまくクリアして、貴重な遺伝子資源や様々なラボで作成された有用な遺伝子組み換え動物などのサンプルに関しても、より一層のオープン化および共有化が進むべきであると思います。 論文やデータの公開などに関わる様々な著作権問題に多くの研究者が正確な情報や意識をもっていないことをいつも実感しています。その面ではアメリカのように教育課程でのひとつのcurriculumとしての導入が必要かと思います。 論文関連データをわかりやすく整理してまとめるという作業は 「どういった整理の仕方がわかりやすいか」ということが分野や人やその 論文内容により異なるため、簡単ではなく、これを真面目に行おうとすると その分、研究のための時間が割かれてしまう懸念がありますが 一方で、データバックアップや後々の研究での自分自身で参考にする際に 便利になるということはあると思います。 第3者に見てもらうことでメリットは特に感じません。 競争が激しい分野ではアイデアも含まれているようなデータの取り方などが 知られてしまうということもあり、見せるのが適切ではないように思います。 論文誌に発表した以上の内容、データを不特定多数の一般に公開するのは、権利関係も含め、問題点が多すぎるように思う。 論文投稿時にOpenにするかどうかの選択を行うことが最近増えたが,資金状況を考慮して断念している。オープンにすれば多くの読者の目に触れるので利点は感じるので、研究費の状況次第では積極的に選択することも考えたい。 データ公開は実際にはかなり困難であり,専門家以外には対応できないことも多く,また専門家であっても他人のデータを完全に正しく理解することができるか疑問であるし,誤った解釈などから波及する後のリスクを考えると現実的ではないと考えている。 論文投稿前にデータを公開することには、盗用される恐れもあり危険性を感じるが、論文発表後は積極的にオープンにしていくことは重要であると考えます。 論文は基本的には公開して多くの人に読んでもらうものだと認識しています。 問題は、関与する人がだれもメリットを得られる経済的な仕組みをどう構築するかだと思います。大学の講義資料などは、自分が作成した後は、無償で提供しても良いと思いますが、優先権を争うような新規な知見を特許以外の手段でどうオープンにするか良い方法があればと思います。 一般的なオープンになっている情報(コンピュータプログラム)には普段お世話になっているだけに、give and takeしたいと考えています。 論文やデータの公開,オープンサイエンス環境を整えるためには、まずその基本的な考え方とメリットを研究者が十分理解することが不可欠である。しかし研究者間においてもデータ公開については労多くして益少なしという印象が持たれていると感じており、議論は深まっていないのが現状であると思う。 論文の盗用問題などが契機となり、データの公開などの機運は高まってきているとは思うが、公正性と利便性を同時に担保するためには誰もが納得するような仕組みを整備することが不可欠である。しかし、研究データの扱いについては、分野によっても考え方が異なり、また同一分野にしても個別の研究ごとに事情も異なってくる。統一的な仕組みを構築することは、現時点では困難であるという印象を持っている。 「公開する」ということは新興国も含めて誰もが見ることができる状態にするということである.それによって利益を得る個人は多いかもしれないが,自身はそれに該当せず,その必然性自体に疑問を持っているため,. 1.利用するときの共通フォーマットの整備が必要。整備されていないデータは、利用するにも膨大な手間がかかるため、結果として利用しないことになる。 2.データを取得した者のプライオリティの確保と保証。例えば、5年間は再利用できない、など。また、利用するときには、この論文を必ず引用すること、など。 オープン化は、学術進展や費用削減に関して非常に良いことだと考える。 しかし、現時点では、投稿論文の著作権や投稿先の学会との関連が問題になりそうに思う。 また、データの公開は、公開した人は公開の労力が必要なのに対してメリットが無く、そのデータを利用する側にメリットがあるため、公開する側に大きなメリットがある仕組み作りが必要に思います。 カレントデータの公開は,公益性があります.一方で研究者の公開への負担が増えることで,研究活動が阻害される懸念もあります.つまりデータ公開は役に立つと思います.しかし明確なデメリットも存在しています. デメリットの一つは,誤りのないように適切に説明を付けて公開しようとすると,大変な労力を要することです.論文投稿に関しても,厳選して慎重に誤りのないように行っています.ページ数が少ないとしても,その負担は軽くありません.カレントデータは論文よりもデータ量がはるかに多く,第三者に見える形にするには時間を要します. またメリットが少ないことも課題です.データの公開は研究者の業績としてカウントされればよいですが,現状はデータベースの公開は査読を受けておらず,業績にはなりません.データ公開が業績評価の対象になるのであれば,多少は力を入れることも可能になります.オープンサイエンスを志向するのであれば,メリットを増やすことも対策になります. データの公開はそれ全体の思想としては賛同するが現実的な問題が数多く存在すると考えている。 1) 他人が理解できるようにデータを公開するのは困難であり、そのために論文を書くのと同等の準備や内容の精査が必要となる。流行の中心となっており、数多くの研究者が同様の問題を扱っている場合にはこのデータを公開する労力に見合った評価が得られると思われるが、そうではない分野ではその労力がすぐには報われない可能性が大きい。 2) シミュレーションや解析プログラムは、プログラムそのものを扱う分野ではフォーマットや書き方に標準的なルールがある程度厳格に定められている場合もあるが、数理研究に代表される基礎研究では、プログラムの書き方の「美しさ」は通常後回しに為れるものである。従って、他人が読むのが困難なコードがほとんどであると思われる。データの公開が重視され、標準的なコードの書式が広まることについては賛成であり、適切なデータを公開した研究者は評価されるべきだが、それは付加的、あるいは新基軸としての評価基準であり、あくまでのマイノリティであるがため尊重されることだと考える。すべての、あるいは多くの研究に対して公開データを強制するような方向には反対である。 データペーパーのように引用する側とされる側のメリット・デメリットを明確にすることが必要 データを保持している機関・研究者がオープンにすることでのメリットを確立する必要がある.たとえばデータをオープンにした場合の評価を与えることができる仕組みが考えられる. データ公開は科学の公共性を考えると必要な措置ですが、就職や昇進の要件に業績評価があるため、公開=業績という風土が育たないと、データ公開の文化は根付かないと思います。 研究に役立つ様々なデータベース的なものがフリーに提供されるのであれば、研究者の立場ではありがたい。問題はデータ信頼性をどう保障するか、人材、資源の確保であろう。データ提供者側にそれなりのメリットがないと広がらないと思われる。 研究の再現性を確保するために、データの公開は重要である。 バイオインフォマティクスなど、分野によってはデータの公開がうまく研究の活性化に機能している。 データの公開が遅れている分野もこれらの分野を参考にして推進すべきだと思う。 また、データの公開はその分野の研究者が誰も行なっていない中である研究者が単独で行なってもその研究者には利益がないため、個人の良心に委ねていては前に進まないだろう。 国や学会が主導して推進すべきだと思う。 現状では、出願や論文発表前のデータ公開はあり得ないと考えます。推進するためには、業績として評価する体系が必要だと思われます。 公開されたデータは利用する側には大きなメリットがあると思います。その反面、公開する側のメリットが少なく、デメリットが多いように思います。データ公開に対して何らかのインセンティブが設けられると良いと思います。 公開しても良いが、そのための時間がもったいないと感じています。 それをやる時間があるなら、次の研究に取りかかりたいと思います。 公開するメリットより、現状では、時間の面でデメリットが多いと思います。 公開することへのインセンティブを、如何に上手に与えるかがひとつのカギであるように思います。そのためには、公開したデータへのアクセス数や評価をフィードバックすることがまず考えられます。データにアクセスする場合、匿名ではあったとしても、何らかの情報を著者にもたらすことを承諾してもらい、著者の側でも、それを基に自身の研究やデータがもたらした影響の一部を認識できると良いわけです。それを自身の所属機関における評価の一部として使えるようであれば、一定のインセンティブにはなると思います。 公開のメリットがあれば,それは能動的に実行されるであろうが,デメリットや煩雑さがあれば,実施しない。 一方,米国のように公開の義務がある場合は,せざるを得ない。 論文自体は、正しさの検証するために公開するべきであるが、論文公開にかかる費用、工数を考えると安易に無料にすべきではない。 元データも、データ取得に費用、工数がかかっているので、基本的に公開する必要はない。 安易に無料で公開しなければならないようにすることは、研究の先進性、自由競争の原理を損ない、研究全体の質が低下する危険性がある。 有益な情報を生成した人・機関にそれ相応のメリットが享受できる仕組みであるべきである。 ・所属機関の財政状況で購読できない論文誌も多く(購読できない論文誌の査読が回ってきて困ることもある)、先行研究の調査や情報収集に影響を与えつつあるので、論文誌のオープンアクセス化が進むのは研究業界にはありがたい。(特にArXivにはお世話になっている。) ・データの公開には暗に、「論文などで既に成果を公表したデータ」を意味していると思うが、むしろ本当に重要なのは「失敗したデータ(と失敗した原因)」だと思う。 ・ただ、データ公開のために研究者が労力を必要とするのは、ただでさえ研究人材不足と雑用が多い現在の状況では、本業である研究の遂行を妨げるので、データ公開専門のサイエンティストが必要だと思われる。ただし、そのデータ公開専門も一般事務とは異なり、高度な知識を持つ「サイエンティスト」でなければ機能しないのではないか。 「論文やデータの公開,オープンサイエンス,および調査」に関しては、従事する個々人や組織への継続的なリソース確保を常にセットで構築することが肝要です。 1. オープンアクセス雑誌は玉石混合な状態であり,質の保証されている雑誌もあれば,査読がずさんな雑誌も多い.このため,支援方法を工夫する必要があると思われる. 2. 私の分野では,作成したアルゴリズムを公開する場合もあるが,他人が理解でき,再利用しやすいように改訂するのに手間がかかり,なかなか公開が進んでいない状態にある.このような作業を補助する人材がいればアルゴリズムの公開はもっと進むのではないかと思われる. J-Stageの普及により日本の論文はAccessibilityが上がっているように思うが、その反面、投稿料が高いというデメリットがある。日本語論文の価値が低く見られることもあり、日本語の論文誌はどこも瀕死の状態にある。オープン化と経済性のバランスが悪い例だと思う。一方、Elsevier等の商用誌は、オープン化するには高額の費用が必要であり、オープン化のモチベーションが起きない。いずれにしろ、大学教員は忙しすぎるので、余計な作業を行う余裕はない。地方大学には予算も人材もないので、他人の論文やデータに無料でアクセスできるのは嬉しいが、自分自身のデータや論文をオープン化することは考える余裕がない。 オープンジャーナルの課題は、世間でいろいろと言われているが、大きいと思われるのは、アクセスに制限をかけている理由として学会員へのベネフィットに利用されているためである。これは、各学会が会員確保を理由にしていることに起因する。学会が増え、若い研究者のポストも減り、若い研究者が減っている中で、学会員も減少の一途をたどっており、学会員の確保は死活問題になっている。そのあたりを解決しなければ、オープンジャーナル化は進まないと思う。 遺伝子発現のデータベースやマイクロアレイのデータベースなどは、すでに積極的に公開されてきていると思う。そのようなデータベース構築のためのデータ提供は研究者として協力すべきである。一方で、日々の研究データについてどこまで公開すべきかというのは熟慮を要する。現実問題として、時間も費用もない。仮に、強制的に義務化されたとすれば、確実に競争力が低下すると思う。また、二次利用される場合のルールが必要である。 これだけネットが発達した社会においてオープンサイエンスの方向性自体に問題はないと思われる。また、研究を職業としていない人たちが研究に参加できる可能性もある。しかしながら、日本の土壌ではオープンサイエンスは育ちにくいと思われる。なぜなら日本のサイエンスやテクノロジーは未だに秘儀・奥儀の世界を脱しておらず、常に権威や権力にまみれている。また、手法やデータを公開すると必然的に研究の質を高め、量を減らさざるを得なくなり、量的な研究成果を求められる若手研究者の負担はさらに増すと予想され、手法やデータのオープンアクセス化は必ずしも皆が望むような絵に描いた餅にはならない。この他、この国では公平で建設的な議論を交わすというのが非常に難しいため、公開したことで血祭りに挙げられるような事象が増え、研究者はあまりオープンアクセス化したくはないだろうと予想される。また、既得権益者にとってオープンアクセスは脅威だろう。それでも、オープンアクセス化にすることで恩恵を得られる場面もあると考えられ、可能性も残されていると思う。今後も一定数の研究者はオープンアクセスに積極的でいると思う。 データのオープン化は科学技術研究の進展に大きく寄与するものなので,積極的に進めていくべきだと思う.ただ,そのための人材・費用・時間等の捻出が難しく,実際には十分対応できていない. データの管理は非常に大事です。それが他の研究者が共有でき、しっかりとその情報のプライオリティーを認めてくれるのであれば、非常によいことだと思います。実際には、研究者にはその「時間がない」「自分で得た過去のデータには興味がない」などの理由で、なかなか難しいのかなという印象です。 データの公開について。 1教員あたりの事務職員数が少ない国立大学の場合、この公開作業は実質的に教員が行うことになる。この作業はアクティビティーに比例して負荷が大きくなるので、アクティビティーの高い教員の研究意欲を削ぐことにならないか不安を感じる。論文の公開については、図書館の論文購読料高騰に対応した経済的メリットおよび大学間の論文情報格差改善効果があるので、これについては問題はないと考えている。 データの公開には余分に時間と費用が必要であると考えている。 分野によって異なるかも知りませんが、論文オープンアクセスやSupplementで十分データの公開が可能と思っているので、オープンアクセスする際に資金が有れば良いと思う。 データの公開以前に、保存についての段階で既に、個々のラボのキャパシティを越えていると思われます。これは現在の化学に於いて一回の解析で出てくるデータ量が莫大になる傾向が強まっているためです(とくにオミクス解析や画像データの多い生物学)。これをラボ単位でバックアップ保管しようとすると、かなりのメモリが必要で、商用クラウドを利用するとたいへんな高額になりますし、民間の無料クラウドですとメモリが不足、あるいはセキュリティに不安があります。これらの問題をまず解消しないと、その先の公開までは進めないのではないかと思います。 データの収集や公開は長期的に行うことが重要である。このため、このような業務ができる組織、体制、人材の確保、また資金の長期的な確保が重要であると思う。 データを公開することによる研究者のメリットは年々増えてきていて,良い方向に向かっていると思います. 次の大きな問題は,他の研究者がデータを利用する際に,データを「正しく解釈できる」ことが,その研究者の能力に依存していることであり,もし「誰でも」「正しく解釈できる」データを提供しようとすると,提供者が膨大な時間的リソースを割かなければならないことだと思います. 例えば,実験データのアーティファクトやノイズは,同じデータでも検討する問題によって,除去する必要のあるレベルが大きく異なります. 提供者本人の研究の場合,生データからそれぞれの問題に対応したレベルで処理を行えばよいのですが,他の「不特定の」研究者にデータを提供する場合は,どのような目的で使用するかわからないので,最も厳しいレベルでノイズ除去をしなければなりません. 一方で,生データを提供するとした場合,アーティファクトやノイズに影響すると考えられる要因をできるだけ多くデータを合わせて提供することになり,非現実的です. 以上のことが,データの正しい見方を理解している共同研究者以外にデータを提供することの難しさだと思います. データ公開のためには、先ずデータのデジタル化が必要であり、そのための設備(機器)の整備が課題となる可能性があると思います(少なくとも私の所属機関ではデジタル化の環境が整っていません)。また、膨大なデータをどこで管理するか(バックアップの問題も含めて)検討する必要があるものと思います。一方で、紙媒体による実験データのやり取りに比べて手間、費用など大幅に削減されることから、推し進めていただきたいです。 また、私の所属する大学では(予算不足のため)蔵書やオンラインで閲覧できる雑誌数が少ないため、論文やデータが公開されているととても助かります。 データ公開のために莫大な手間と労力が取られて肝心な研究をする時間がさらに減らされることを危惧する。人的サポートがあったとしてもあまり負担減にはつながらないのではないか。というのも公開のためのデータ整理は、論文作成に近い作業であり、それを支援してもらうというのは、論文を他人に書いてもらうのに近いことである。公開したい研究者へのサポートはするべきであっても、公開を全員への強制的なものにはするべきでない。 学術的成果の公表の観点から、学術論文を含むオープンアクセス化の流れは歓迎すべき傾向であると言える。殊に、研究資金の限られた環境に置かれている研究者にとって、有償の文献の閲覧は看過できない負担といえるため、今後より一層のオープンアクセス化が進むことを期待したい。 その一方で、研究途上のデータや、成果物としての公開する以外のデータの開示については、データやアイデアの剽窃、無断利用など様々な問題が生じる可能性が否定できない。成果物、即ち研究成果として公表する以外のデータ公表を安易に推し進めることには、積極的に賛成できない。データの信頼性を担保するために、成果物にデータを添付することについては賛同できるが、そのためにこれまで以上の手間や資金が必要となる場合、積極的に協力することは難しいと考える。 学術論文のオープンアクセス化(外国雑誌の場合についての議論も含め)に関しては、領域横断的に積極的に推進するための議論が必要と考える。その一方で、データの公開については慎重な議論を望む。 学内業務等でただでさえ研究活動に時間が取れない環境なので,これ以上,研究に割ける時間が減るようなことを強いるのはやめてほしいです. 研究コミュニティに貢献したい気持ちはあるので、公開できるものは公開したいと考えている。 一方で、学内業務が多忙であるために、そのための作業に要する時間を十分に確保できない。 例えば、プログラムコードであれば十分なコメントや使用方法を整備する必要があり、データであればフォーマットを整えたり、解説を加えたり、それようのWebページを作成したりする必要がある。 また、データに誤りがあった場合や、その後の個別の問い合わせへの対応などを考えると、やはり「継続して時間を取られる可能性がある」という点で懸念が残る。 感覚として、資金よりも時間がネックになることが多い。 研究データの保管,公開を支援する予算 研究成果やその関連データをLinked Open Data(LOD)として公開する情報基盤の整備に携わっているが、研究者からのデータを学術的なデータの意味まで丁寧に精査してLODに変換するには人的リソースが足らずオープンサイエンスへの貢献が限定的になっていると感じている。ストレージやメタデータなどのハードウエア整備や人材確保は一体として総合的な体制構築が必要だと思います。 研究成果を誰でも利用可能な形でオープンにすることは、全人類の知的財産を保存・発展させる点、また研究手法・結果の妥当性を広く評価できる点において非常に重要であり、今後世界標準になるものと考える。しかし、爆発的に増大するデータを将来に渡って記録・保存していくことは経済的・人的コストのかかることであり、そのコストを誰が負担すべきなのか、解決しなければならないと思う。 公開したいが方法がよくわからない.専任の担当者が欲しい. 公開を進めるためには、論文をたくさん書く研究者の負担が増えるというシステムではダメで、入力や公開等は各研究機関が業務として行うべき。 昨今の論文は分野が多岐にわたっており,かつ各分野閉鎖的で,オープンサイエンスをとることで不適切な論文を排除できる有効性があると考えられる。ただデータをオープン化する資金や人材不足があり,研究者にそれを行えというのは,無理のような気がする。科学的知見は社会の財産であり,それを守るためにも,オープンサイエンス化を促進する人材の教育を各大学で必須化することが必要と思われる。 実験データの公開の観点からすると現在の所属大学における設備面での補助が不可欠である。またサーバーなどの汎用機器を購入する予算が限られており(科研費の場合は理由書が必要、運営交付金では整備できない金額)、実現がほとんど困難なように感じている。 また論文のオープンアクセスに関しても、予算に十分な余裕がある場合に限られるのが実情である。例えば挑戦的萌芽研究・挑戦的研究(萌芽)などでは年額100万円程度になる年もあり、この中からオープンアクセス料として30万円近い金額を払うことが非常に難しい。 取り扱っているデータは,大きなものではないが,公開する場合には,その詳細を説明する必要がありこの手間は無視できないと思う。また,手間と時間を掛けて手に入れたデータをそのまま無償で第三者に渡すのは,良いこととは思えない。他人のデータのみで研究をする研究者の割合が増えることは,科学の発展を損ねるものと思う。 所属する研究機関が購読しているジャーナル数が年々減少しており、オープンアクセス化を推奨することには賛成です。しかし、多くのデータを公開し続けるために必要となるコストは高いと思われるので、それを精査するステップが重要だと思いました。 所属機関のオープンサイエンス化が議論されているが、分野的にデータ量が多く、公開に必要となるハードを整備する予算や研究者に代わり作業を実施する人員の人件費など検討が必要であるとともに、組織として責任あるデータ公開を実施して行くには専門部署の整備が必要と考えます。 人,サーバー,フォーマット(業界による?)などの整備が必要。 推進すべきである。ただ、その分時間や手間などは増えるであろう。 全データ公開というのはほとんど現実的ではないと思います。公開して役に立つデータとそうでもないデータがありますので、必要な物をサポートする体制にすればよいのではないでしょうか?フォーマットにこだわるとフォーマットをそろえる手間がかかりますので、ある程度フレキシブルな方が良いと思います。 他人が公開したデータに興味を示すことはあるが、自分のデータの公開に魅力は感じない。公開するのに資金が必要であれば、研究費などの資金が豊富な研究室や研究機関のみが参加できることになり、格差が広がりやすくなる。そうなると、資金繰りが厳しい研究室や研究機関は公開することをためらい、さらなる論文の質や量の格差拡大が引き起こされる。 多くの人と気軽にかつスピーディーに連絡が取れるようになって,問い合わせを受ける機会も増えてきた.それは時には有意義だが,ちょっと考えればわかるような些細な問い合わせだったりしてあまり効果的でない問い合わせもある.従来よりコミュニケーションへのハードルが下がったため,安易な問い合わせが増えているように感じる.これらに回答することは時間の消耗であり,かつ,金銭的コストの消耗である.研究に専念することを妨げるものである.データを公開することは,この消耗している時間的金銭的コストを削減できる可能性があると思う.公開してしまえば,個別に対応する必要がないからである.すなわち研究に専念できる時間が増えるメリットが期待できる.しかし,これは,研究者が払うデータ公開にかかるコストないしはそれを維持するコストが大きくないという前提によって成立する.十分に吟味して研究者の負担を減らす制度が必要である.研究者が研究に専念することを妨げるような制度をつくらないでほしい. 大学教員は非常に多忙で、疲弊している。サポート体制を全体的に強化すべきである。それなくして、新たな事業は、これ以上、無理と思われる。無理すれば、かえって、日本のサイエンスのレベルや活力の低下をもたらすだろう。(すでに日本発の論文数の低下など、明らかに研究活動の低下が明らかになっている)このようなことより先に、いかに大学教員の研究活動をサポートするか検討して、改善すべきである。 適切な引用が行われる前提で論文やデータはオープンにされるべきだとは思うが、それに伴う、費用、手間が問題である。 年間の論文執筆数に対して、年間に論文審査(reviewer)を行う回数が5倍以上ある。そのために論文の投稿が滞っている。そのような現状の中、データやツールを公開することで、第三者の役に立ち、研究分野の推進に貢献できるなら、非常に興味深い。 発表論文は公開すべきですが、論文の正当性を主張するためのデータをすべて公開せよ、となると負担が大きすぎて研究の支障となりえる。 費用の問題さえクリアできれば積極的に公開したい。 不正アクセスやサイバーテロ対策の人材,バイオインフォマティシャン,SEの育成も急務と思う。 分野にもよりますが、研究者自身が相当な労力・時間や経費を掛けて得られたデータを積極的に公開することは、あまりないと思われます。 論文データの公開のみならずいわゆる遺伝情報や、組織での遺伝子の発現情報の公開については、所属機関の資金力が物を言うと思う。 その他気になる事は、研究者は異動することがあるため、前所属機関のサーバで公開していたデータが、果たしていつまで保存されているのか全く分からないことである。個人がいわゆるgoogleなどでデータを保存するのは容量的に無理があるため、公開するためのデータを保存できる研究者専用の公的なサーバやリポジトリが必要かもしれない。 論文のオープン化は研究費を削って行うことになるため、資金問題は非常に大きく、個人的にはそれが解決しない限りはオープン化にすることはないと思います。 情報のオープン化も形式などを統一していないと、他者の研究データの解釈が困難になると考えられる。しかし、オープン化する際に自身のデータを統一した形式に整えることは、非常に労力がかかり、避けられるのではないでしょうか。 論文の意義が、専門家の間での情報共有であるので、それ以上のデータの公開は新たな手間を産み出すだけに思う。近年、ただでも教員の教育と研究以外の業務(大学は自学自習であるにもかかわらず講義を予備校のようにわかりやすくするとか、研究費のほとんどが競争的資金で申請書や報告書に時間を費やすとか)が多くなっているため、これ以上教育や研究の本筋以外の業務を増やさないでほしい。 論文の公開については問題ないが、データの公開となると様々な問題があり、研究者への負担も大きくなる。例えばDNAのデータ情報を公的な機関に登録する際には、データについての様々な情報を入力する必要があるが、その量が多いため、大量のデータを入力する際には、研究者に大きな負担となる。 論文は、書いてある文章やグラフなどの公開で済むが、その文章やグラフを作成した際のデータまでも公開することになると、データのまとめ方や表現の仕方などデータを見て他人が見て分かるようにする必要がある。 その手間や費用などの問題もあると思われる。 論文は基本的にオープンにすべきと思います。また、データの公開も必要と思いますが、管理方法及び使用するときの基準などの整備が必要だと思います。 論文やデータのオープン化には賛成するが、多くの科学雑誌でオープン化に際し高額の料金が発生しその費用を自身の研究費で賄う必要があるのが問題だと思う。潤沢な資金のあるラボなら別だが、今後論文のオープン化が進めば研究に支障の出るレベルの負担になりかねず危惧している。また、Ifが高くなれば、掲載料金を数倍にも値上げする出版社もあり、経済力のある研究分野や国、研究機関などが科学の質でなく、経済力で論文を生産する時代が来るかもしれない。 論文や学会発表資料の著作権を有する出版社や学協会なしでの議論は、現場の研究者に「とりあえず政府 or 機関命令なので公開して下さい。出版社の許諾はないので、訴訟リスクは現場の個人が抱えてください。命令者は関知しません」的な状況に陥る事が容易に想像できる。出版社や学協会と密接に相談してほしい。 加えて、公開した場合のリターンは何なのか?以前勤務していた大学では、理研小保方事件後に、全論文と学会発表のデータを機関に提出するよう業務命令された。当時、その大学の全論文の 10% 程度は自分の研究室から出ており、端的に言うと、データ取りまとめという事務的な仕事が増やされただけであった。どんなに頑張って研究して成果を出しても、大学等研究機関では給料が増える訳でもなく、ほぼ職業的モチベーションに頼っている現状で、頑張って研究成果を多数出している人だけの仕事を選択的に増やす意味を教えてほしい。現状、既に任期なし教授であり、多くの教授がそうであるように、全く研究成果を出さなくても、失職するリスクはない。そのような状況でも研究成果を発信し続けているのは、ただただ職業的なモチベーションによる。お願いだから、アクティブに研究を続けている人の仕事とリスクを増やすだけの施策はやめてほしい。この種の話で事務的な業務量を大幅に増やされた場合、他の教授同様、研究は引退しようかと思う。 論文や特許等の業績に数えられる成果の背景には、膨大な有効データが存在し、これらを共有スペースで利活用することは非常に有効で、これからの研究活動推進において進むべき重要な方向性であり、大きな期待が持てる。 しかしながら、それは正しい共通認識に基づいたしかるべく活用しやすいデータとしての加工が施され整った形式でのデータ公開が為された場合に限ってのみである。 公開の利便性や効率の向上など、オープンサイエンスの必要性は充分に理解できるが、それを全て現在の研究者が担うのは現実的ではない。研究者がそのために時間を割かれてしまうようでは、本末転倒である。そのための人材確保やキャリア形成の道筋をつけることが急務であると思われ、外部からの参入障壁も出来るだけ低くする必要性があると思われる。 そのためにも、オープンサイエンスにより想定される弊害への充分な議論が為されているのかが疑問である。 共通認識が得られるほどの充分な議論はまだ為されていないと思われるがいかがか。 論文では査読システム(Peer Review)による質の担保が為されるが、オープンサイエンスではより多様な仕組みで対応する必要があると思われる。 これらの議論が充分でない場合には、オープンサイエンスのメリットは全く活かされず絵に描いた餅になってしまうと思われる。 論文発表したデータについては、できるだけ公開しようと考えており、何度か試みたこともあるが、適切な公開方法、データの保存、アップデートなどの管理方法がわからないことや、その管理の負担が非常に大きく日常業務や研究活動に加えて研究者が片手間でできるようなものではない。サポートスタッフがいないと継続的に公開することは不可能と思われる。 データに関して、データの意味や誤差などの正確性をわからず、とりあえずデータはすべて信頼できるものだと考えて使うのは、科学としては不健全であり、また、結果の信頼性を損ねると思う。データを公開するのはよいが、何らかの形でデータを取得し作成した研究者が共著者などになり、データの信頼性を担保した形で利用されることが望ましいと思う。 オープンサイエンスを推進することには賛成ですが、データ量が爆発的に増えているため、それらを人の頭で理解できる形で表現する方法が益々必要になってきているように思います。おそらく個々のデータを事細かに確認する時間は研究者にはないと思うので、データの概要を理解するための補助的なものが必要だと考えます。 "オープンアクセスジャーナル オープンサイエンスの論文誌は近年急成長している。 これには大きく3つの理由がある。 1つ目は既存の論文誌の購読料つり上げに対する反感がある。一定の会社による非常に高額な購読料に対し、反感を感じる研究者も多く、またそれを払えない研究機関の人々も多い。 2点目は1点目に関連し、購読料がなくとも数多くの人に読まれるという喜びがある。研究者たるもの、成果はより多くの人に読んでもらいたいのが心情である。その点オープンアクセスジャーナルは従来の論文誌より多くの人の目に触れる可能性があり、期待感がある。 そして3点目は学際的な論文誌に乗せることで普段接しない読者との出会いの期待が込められている。オープンアクセスジャーナルはその特性上、学際的な雑誌になりやすい。このような雑誌では普段目にしないような分野の奇抜な研究が取り上げられる傾向にあるように思う。従来の""オープンアクセスでないジャーナル""では従来手法に則った研究が好まれる傾向にあるが、オープンアクセスジャーナルでは、他分野でも流用可能な新手法を用いる論文も多い。このような傾向が出てくるのは新たな共同研究者との出会いや、自分の研究の未知の可能性を模索していることに起因しているのだろと思う。 1点目は所属機関によっては読めないという事態を防ぐためにアカデミアの在り方として大切な観点かと思う。またこれら3つの理由のうち3点目は特に大切なポイントであり、学際的かつ革新的な研究を推進するのであればオープンアクセスジャーナルは強く推進していくべきものであると考える。 オープンアクセスなデータ オープンアクセスなデータ等を国が主体となり、プラットフォーム整備することで、新たな分野への新規参入障壁画は低くなる。他者のデータをより手軽に入手し、自身の持つ研究手法を適応することが容易になるからである。その点、今後の科学研究はオープンアクセスであるべきであり、そのプラットフォームを整備することが目下の重要課題であると考えられる。そのプラットフォーム整備には大多数の研究者たちの意見を取り入れ、より利用者に即した仕様、拡張性利便性将来性の高いシステムとされるべきである。" オープンサイエンスには積極的であるが、個人的な研究資金がないため、オープンアクセスの学術雑誌に投稿し、掲載料を支払う余裕がない。そのための枠組みさえあれば、どんどんオープンアクセスで成果報告をしたい。 オープンサイエンスは科学技術の効率的な発展や、新分野、融合分野の創出を促すために是非進めたい。しかしながら、学術界の慣習は唯我独尊が偏重され中々進展しないことが懸念される。数年前に出版されたマイケル・ニールセン著「オープンサイエンス革命」の中で「デザインされたセレンディピティ(掘り出し物を見つけること)」ということが述べられていたが、簡単に言えば「ひらめきを計画的に設計する」ということではないかと思う。論文やデータの公開・共有はおのようなことを容易に実現できるのではないかと思う。 並行して進めなければならないのがオープンイノベーションである。特に工学的な科学技術は実用化・産業化という段階でも多くの課題があり、これらをサイエンスの分野にフィードバックすることによりさらに効率的な進展が期待できる。しかしながら産業界にも特許や知財という制度があり進展を阻んでいる。 一方で、一部にWEBを利用したオープンイノベーションが進展しつつあるようで(クリス・アンダーセン著「Makers」)、このような仕組み・手法を発展させること(サイエンスの世界にも適用して)を期待したい。 オープンサイエンス支援は推し進めていって欲しいと思います。 どんどんオープンサイエンス化を進めるのが適当だと思う。 一昔前と比べて、情報が非常に膨大になってきている現状と、googleに代表されるように知りたい情報検索が容易に行えるため、オープンサイエンスは非常に重要であると考えます。またビッグデータが取得できるため、様々な分野の方にデータを公開し、これまでとは違った視点での解析が進むことで、科学の飛躍が期待できると思います。 学術誌があまりに権威化し、どの雑誌に掲載されたかが研究者の人事および研究費獲得における評価に絶大な影響力をもつようになった。一方で、一流紙に掲載されるかどうかは、研究の中身でなく、強力な研究者の後ろ盾があるか否か、などに大きく左右される。 これが、研究者にとっての成果発表とキャリア形成に公平感を欠くことを招き、不正行為を生む土壌となっている。実際、トップ誌ほど、捏造などによる論文の撤回が多いことは明らかである。 もちろん、データの質や研究者の評価を、時間をかけて、中身を精査することを怠る評価側の資質の欠如と堕落した姿勢が、この事態の根本原因であろう。しかし、そう簡単に評価側が変わることもできそうもない。 こうした認識は、少なくとも研究者の中で浸透しつつあり、権威化した出版社を否定し、新たな研究成果発表の手法としてelifeなどの論文誌が新たに作られたり、EMBOのように査読過程を透明化するなど、模索が続いている。 査読システムが研究分野によっては全く機能せず、研究不正を見抜くことも出来ないことや、学術誌のヒエラルキーが研究者の不当な格差形成を助長している現状を鑑みれば、研究成果発表をどの研究者も平等に等しく行うことのできる共通したオンラインでのデータ・論文公開手法を、国際的に推進し、標準化することが喫緊の課題であろう。 基本的に推進する方向性に賛成です。国が音頭をとる、または口出しすることにも賛成です。 近年、学際的な研究が進んでおり、多分野間でのオープンサイエンスの活用も非常に重要であるように感じられる。@各分野の知識、専門性を持つ方、もしくはA専門家から学び研究者間を繋ぐことを専門とするコーディネーターの役割を持つ方、のどちらかが公開されたデータを適切に活用されるためには必須だと思います。 今回の活動には賛同します。資源がかかるとのことですが、金銭的資源さえあればIoT関係の企業は喜んで受託すると考えます。 所属研究機関を通じてアクセス可能な情報量が少ない地方研究機関に所属する研究者にとって、論文やデータの公開、オープンサイエンスは極めて魅力的だと思います。 問題や課題もあるかと思いますが、オープンサイエンスは基本的には科学技術の進展には好ましいと考えます。是非推進していただきたいと思います。 論文のオープンアクセスはほとんどの研究者が希望すると思います。ただ、学術誌のオープンアクセスオプションや、オープンアクセス論文誌の投稿料は高価で、おそらく20万円/件程度出版にかかると思います。 研究者の年間研究費が200万円程度であるとすると、年間3件論文を出版すれば、研究費の約1/3が必要となり、これでは研究自体が成り立ちません。 ですので、なんらかの予算措置が必要と考えます。 論文を評価する際の基準として、「新規性」「独自性」がしばしば挙げられます。学術雑誌に掲載される前の論文やデータを公開した場合、その内容は「既発表」と見なされ、雑誌等に掲載してもらえなくなる可能性が高まります。特許に関連する情報については、「既発表」性に関する問題が広く認識され、どのような場合には公開を見送るべきか、など、研究者も適切に判断できるようになっていると思います。学術情報一般について、「既発表」となることがどのような問題や不利益をもたらし得るのか、という観点での検討も、必要ではないでしょうか。 一例を挙げます。最近では多くの大学で、博士論文をインターネットで公開するようになっています。従来は、博士論文の内容の一部(学位取得前に外部で論文発表できなかった部分)を学位取得後に投稿、発表することがよく行われていました。博士論文が公開されると、多くの投稿論文が必須としている「未発表の内容であること」という条件は、公開の時点で損なわれます。投稿論文としては未発表の内容であっても、投稿が受理されないことが起こり得るわけです。今後、修士論文や卒業論文も公開ということになると、修了、卒業前に論文を出版しない限り、修士論文や卒業論文の成果は投稿できない、ということにもなりかねません。速やかに検討を要する点ではないでしょうか。 ・論文をフリーに公開できることは,研究成果の発信と還流と言う意味で重要。 ・ただし,論文の質,データの質,等,活用に足るだけの品質が確保できているかは,第三者の目が必要(データや論文のウキペディア化を防ぐため)。 ・もう一点,資金提供者と受益者の関係が明確になることが必要。 『引用数が多いことが必ずしもデータの信頼性やインパクトの高さとイコールではない』という考え方もある.オープンアクセスのジャーナルは引用される回数が多くなるため,前述の課題をより難しくしてしまう要因のひとつである. 1.オープンアクセスジャーナルに関しては、まだジャーナルそのものとして高い権威性があるとは思えないが、内容が確かで利用がしやすいという条件が整えば、発展途上国を中心に利用の頻度は高まってくるものと思われる。既成の概念や権威よりむしろ実質的な内容が重要であるという考えが多く占めてくると、ネットでの利用での利便性を考えてもオープアクセスジャーナルに利用頻度は今後高くなってくるのではと思慮する。 2.研究者の立場からすると、自らが取得してきたデータはある目的をもって収集、集積されたものであることからカレントデータの公開は、研究アイデアのと密接に関係しているため、論文化される前に公開することは極めて難しい。 一方、定点観測などの定期的調査データなどは、むしろ公開すべきで、フォーマットの簡略化や、利用方法のマニュアル化など、活用しやすいように体制を整えるべきで、海洋観測データなどでは、既に行われている。しかし、この場合でもデータの取得法の統一などについては、前段階のマニュアル化(観測頻度など)も重要である。 6.カレントデータに関する質問は、理工系分野からの回答が想定されていなかったように思える。些か不適切に感じた。 近年は有名雑誌の購読料が鰻登りになっていて、大手(?)の大学・研究機関に所属しないかぎり、文献の入手が非常に困難である(少なくとも時間がかかる)。研究成果をオープン化する最大の目的は、途上国を含め、十分な研究資金を持たない機関に所属する研究者に対しても、広く研究を進める機会を提供することだと考えている。 一方で、この考え方は知財管理の視点と多少競合しているようにも思える。個人的な感覚ではあるが、大学(その他の研究機関も?)は、どちらかと言えば知財保護や特許取得といった、数として目に見えてしかも資金が関わることの方に躍起になっているように思える。(仕方がないとは思うが…) Elsevierなどが雑誌の金額を年々あげていることが世界的に問題になっています.商用誌にたよらなくても,公的な機関が雑誌を発行することや,研究内容を公的に評価・紹介できるシステムなどがあるとよいのではないでしょうか? Nature Communications誌のような掲載に70万円必要なオープンアクセス誌が増えると、掲載料で破綻します。 OA誌の掲載料は高いので、それを補てんするようなシステムがあると良いと思います。いつも、誰のどの予算から出すか…というところでヒヤヒヤします。 PLoS Oneなど、オープンアクセスのジャーナルがあることは人類の知的財産を共有するという意味で非常に価値のあることであると思われるが、工学や技術開発を伴う研究開発分野では、特許などの知的財産をきちんと保護する仕組みや企業との共同研究の進め方など、制度的に整って居るとは言いがたい。特に、特許や論文が受理される以前のデータの公開は上記の観点から原則無理だと思う。もしそのような事が義務づけられると、大学は企業等と共同研究を行うことは不可能であるし、大学発のベンチャー等も難しくなるだろう。 PubMed Centralのような、日本の公的グラントで発表した論文を所蔵するオープンサイトができるとよいかも。(ただし出版社との契約に必要な資金がどの程度になるのか、そのあたり何もわかっておりませんので、費用対効果の観点は抜けております。) オープンアクセスが進展すること自体は良いことだと思うが、あまりに媒体が増えすぎたこと、その結果公開される情報(論文等)の質のばらつきが大きくなりすぎたこと、公開される情報量が増えすぎて同分野の研究者でもすべてをフォローできなくなったこと、が大きな問題である。所属学会の学会誌の編集委員を務めて、切実に思う。 時代に逆行するようだが、公開するのに高い敷居を設け、良質の厳選された論文/データだけが掲載される場を構築すべきである。 オープンアクセスジャーナルの掲載料が高すぎます。 オープンアクセスジャーナルは掲載料が高すぎるため、そのお金を捻出することが難しい。 オープンアクセスだと,論文掲載料が高い オープンアクセスになると,研究者個人が負担しなくてはならない.オープンアクセス投稿に必要な費用を所属機関が負担してくれるとありがたい. オープンアクセスによる論文提示は次の点でよかった。 1.国際会議でプレナリー・キーノート等に招待された。 2.斬新な考え方や提案は国内に比べ海外の方が受け入れ易い(国内は保守的) 3.投稿により世界各国の関係研究者からメールが来る。 オープンアクセスのための費用を研究者個人の研究費から支払うのは、研究に対する財政を圧迫し、研究遂行の大きな妨げとなることを感じることが多くなった。トップジャーナルのオープンアクセス料金が高すぎる。 オープンアクセスの学術論文誌の掲載料が高いことは、論文をオープンアクセスにすることの障害になっていると思います。 オープンアクセスの雑誌が増えたが、投稿費用が大変たかくて困る。 オープンアクセスの雑誌に投稿しようと思っても、費用が高すぎで載せられない場合もある。掲載料もいろいろな雑誌でお金がかかっている状況である。 オープンアクセスの推奨には賛成であるが、自己資金で(著者が出版社へ費用を支払い)行うオープン化は排除していくべきで、それを助長しないようにすることが必要であると考えます。 オープンアクセスの論文にも、掲載時に費用が発生するもの(商業誌)としないもの(学会誌)があるため、それらを分けて検討したほうが良い。 オープンアクセスの論文誌(知名度の高い)への投稿料は高額なため、オープンアクセスの論文誌への投稿を推奨または標準とするのであれば、資金面でのサポートが必要不可欠と思います。 オープンアクセスの論文誌は掲載料が高額である場合が多いため、 掲載料(の一部)を研究費とは別枠で補助する仕組みがあると良いと思う。 オープンアクセスはお金がかかる(費用が高い)ので、安価に出来ない限り、現実的ではないと思われる。論文が公表されれば、データを公表する義務は生じるかと思われる。 オープンアクセスはとてもいいことなのですが,依然,オープンアクセス雑誌に論文を載せる側の研究者が支払う投稿料がバカ高いのが現実です.出版社がボッタくっているのも事実ですが,もう少し政府が補助するなどして,オープンアクセスにかかる費用をおさえる必要があるかと思います. オープンアクセスを推進するならば,その投稿費用(50万を超える場合もあるので)を科研費以外でもサポートする体制を整えてほしい. オープンサイエンスの活性化は、研究分野の活性化につながると思う。しかし、特に海外のジャーナルを商売にしている企業が、オープンサイエンスを利用して、商売にしている点がある。 仕入れがタダで、大学・研究機関や研究者に売りつける金額が高額という、理不尽な形になっている。 商業利用に何らかの配慮が必要だと考える。 オープンサイエンスの流れには賛成ですが,出版時にすごい費用負担が発生します.良い論文なら,オープンアクセスにしなくても読んでくれますので,結局,出版社に研究費を使うより,研究そのものに使用するという流れは変わらないように思います. オープンサイエンスは、日本の科学技術の発展を推進するためには、非常に重要だと思います。東京大学や京都大学などの大きな大学であれば、機関が購読しているオンラインジャーナルにアクセスでき、読みたい論文のすべてに目を通すことができますが、日本にあるその他のほとんどすべての研究機関や教育機関ではそのようなことは不可能です。興味のある論文すべてを購入する資金は余裕はありませんので、極限られたアブストラクトの情報のみから購入するか否かを判断せざるをえませんが、その論文の内容が期待したものである場合は多くありません。このような状況では、知りたい情報をピンポイントで掲載している論文を探すだけで、研究を広げるための周辺分野の情報に新たに出会う機会は得られません。幅広い情報を得て、研究を進めたり広げたりできるのは、資金力のある機関に所属する研究者のみの特権となってしまっています。 以前、大学や国研にポスドクとして勤めていたときには、比較的自由にオンラインジャーナルから論文をダウンロードすることができる環境であったため、世界の最新の研究論文や、研究の幅を広げるための周辺分野の論文を日常的に読むことができましたが、現在勤めている研究機関では学術論文の購読がないため、すべて自分で手に入れなければなりません。研究資金は、論文ではなく、試薬や消耗品へ回さざるをえませんので、オープンアクセス以外の論文を読む機会はまったくといっていいほどありません。これまで日常的に論文を読んでいた私でさえそのような状態なので、現在の機関に長らく勤めている他の職員は、新しい論文を読んで新しい研究をしようとする気さえ無くしているように関します。 私自身が職業研究者になる以前から、現在のような「学術情報を得るためにはお金が必要」という社会だったため、以前はあまり不自然には感じませんでしたが、現在の職場へ移ってからはいろいろ考えるようになりました。なぜ研究者の努力の結晶である論文の著作権が出版社にあり、自分の書いた論文にさえアクセスできないのか。確かに出版社はデータベースを整備し、維持管理してはいるが、それによってコンテンツを提供した研究者でなく、出版社のみが儲けているのか。私自身は、金儲けのために論文を書いて書いているわけではありませんが、学術研究とビジネスとが、いびつに結びついている現状は改善すべきではないでしょうか。 オープンサイエンスやデータの公開を進めても、適切な手法によって測定されているのか分からないので、学術的な意味はないと思います。 また、論文誌のオンライン閲覧の高騰は、大学教員、研究機関の研究員の人事的な選考、研究機関の評価に本来はその意味を持たないインパクトファクターや論文数を用いたことに発端があると考えています。特に、学会が運営していない商用誌はその傾向が強いのではないかと感じている。そういった風習をなくせば、適正な価格に落ち着き、論文やそのデータ公開必要なくなると考えます。なるべく、学会が運営している雑誌に、適切に論文を投稿すれば良いと思います。 オープンサイエンスを推進することは、プラスの面ばかり注目されると思います。研究開発の進展には必要なことと思います。しかし、オープンジャーナルへの投稿は非常に費用がかさみ、必ずしもすべての研究者が実施できるかというとそうではありません。では、その情報をe-journalで得ようとしても、アカウント取得に費用が発生し、大学はこの費用を削ろうと必死です。本末転倒です。 オープンサイエンスを推進するのは結構ですが、財源を十分に確保していただきたい。また、その財源は、将来の世代に負の遺産として絶対に残らないようにしていただきたい。 相当分の何かを削って、新しい事業を進めるようにしていただきたい。 オープンジャーナルへの論文掲載は、広く科学成果を知って頂くことに、極めて資するという原則論には賛成するが、多くのオープンジャーナルは、読者から料金を得ないので、著者から多額の料金を徴収する。この金額は、Nature communicationだと100万円程度であるため、基盤Cクラスの研究費では、極めて困難である。また、多額の費用を投稿料(別刷料)に費やすと、本質である、研究の進捗に対して使用できる費用が少なくなってしまう。これでは、本末転倒である。したがって、現在、科研費等でオープンジャーナルへの投稿が推奨されているが、この費用の部分のサポートがなければ、ほとんどの研究者にとって、従来の論文雑誌からオープンジャーナルに投稿を切り替えるメリットはない。オープンジャーナルの評価において、広く読者層がいると言われるが、従来の一流もしくは二流といわれる論文雑誌であれば、国内外の図書館や研究機関において購読されているため、理由としてなりたたなくなる。 オープンジャーナルを通して広く研究成果を公開していきたいし、そうすることが機関等にも求められてきている。しかし一般にオープンジャーナルはそうではないジャーナルに比べ投稿料が極めて高く、これをサポートするような財源はない。そこでオープンジャーナルへの投稿を促すような補助金等の精度の充実を強く望む。 オープンデータ,自由閲覧論文などの議論と同時に,論文査読システムのありようを全世界的に検討するべきである.データ・論文などに対する研究者の責任にかかる問題であり,安易な議論は避けなければならない. オープン化が進む一方で,出版社が版権をもつ学術誌(Elsevierなど)の利用料金は上昇し続けて,機関の予算を圧迫している.論文の著作権まで譲渡した学術誌を利用するのに高額な利用料が生じるのは憤りを感じる.様々な懸念を解決し,オープン化が促進されることを願う. オンラインジャーナルは概して投稿料金が高い。さらに、オンラインジャーナルの購読料金が足かせとなり、オンラインでアクセス可能な論文数が減少していかないかという危惧がある。 国際誌に発表される論文の多くは、当該分野の研究者による無償査読により支えられており、その分野の研究者による真摯な査読がなければ、ジャーナルの科学的な質は担保されない。無償査読と高い投稿料金に支えられているならば、オンラインジャーナルは、その購読料を下げるべきであると考える。購読料を下げた上での幅広いオンライン化が、査読者・投稿者を含むサイエンスコミュニティとの健全な関係構築に必要であると考える。 データ自体の公開は分野によると思う。論文の公開は、他の研究者の研究を進めるうえで、重要である。オープンアクセスの論文が一番理想であるが、出版社への費用が問題となる。各機関ごとに、購読契約を結んでいるのが現状であるが、それも費用のため問題となり、購読契約の縮小は、科学技術の衰退を招く。国全体で出版社と購読契約を結んで、国内の研究者が自由に論文にアクセスできるなど(当然国内のトータルの出費が減るのが前提)、学術論文に対するアクセスを支援する体制が整ってほしい。 以下2点意見を述べさせていただきます。 1. 補助金の種類によって、成果報告である論文のオープンアクセス化を奨励しているものもありますが、多くのオープンアクセスジャーナルの投稿料は非常に高額であり、研究費における割合が非常に大きくなってしまうことがあります。さらに、このような多くの有力雑誌が海外の企業(あるいは団体)により運営されているため、オープンアクセス化の推奨は、多額の研究費(税金)が出版料として海外に流れる要因なっていると思います。一度、統計を取られてみてはいかがでしょうか。 2. オープンサイエンスに関して、データを研究コミュニティなどに公開することは、研究活動において必須のことであり、ましてや、研究費が税金等により賄われている場合は、年限を区切って一定のデータの公開を義務化しても良いと思います。ただし、まずは公開に関する規定(公開に係る作業者や運営者、第三者の論文化、データの品質に関する責任の有無、など)の整備が最優先課題であると思います。 何でもオープンにすれば良いというものでは無い。 費用対効果、そして、しっかり国益を考えるべき。 私の分野ですと論文に掲載されるグラフをみれば分かるので、元の数値データはとくに必要としない。自分たちの論文で比較したい場合などは、そのグループにコンタクトをとってデータを送ってもらう。その際、データ・解析法の注意点なども教えてもらう。論文化後、会ったときなどに御礼をする。これがサイエンスの流儀、仁義だと思います。 論文をオープンアクセスで出版することが推奨されていますが、その費用は数万から数十万円かかる。これによって利益を得るのは出版社、それからメインは新興国でしょう。税金の効率的な使い方では無いと言わざるを得ない。 もう一つ、近年学術誌の購読料が高騰していて(といっても1本オープンアクセスする金額で、1雑誌年間購読できますが)、大学によってはダウンロードできない学術誌が多くある、という問題があります。 全国の国立大が出版社と一括して契約、交渉することで大幅割引を実現する、など、文科省にしかできないことがあるはず。 世界に成果を発信するのも重要ですが、納税者としては、国内研究者の利便性を高めることにまず取り組んで頂きたいと思います。 科学論文の著作権に関して、その使用料の高騰と、一部業者の囲い込みは、科学の進歩において、良い面(質の確保)と悪い面(アクセスや利用の困難)を生じさせており、将来に向け、懸念を生じさせている状況です。オープンアクセスを進めること、その中で論文の評価を確定せていくシステムができれば、メリットは大きいと思います。そうした基盤の整備が進むことを希望します。 海外誌の投稿料、オープンアクセス料が高すぎて本当に適正価格なのか疑問に思う。各研究機関がリポジトリの整備などに責任をもって公開しなければ、アクセス制限のある論文が多すぎて研究に利用できない。また、査読の依頼が来ても関連論文がダウンロードもできない状態で評価しなければならない状況も多々有り、矛盾を感じる 学協会によって、大会の梗概で、簡単な抄録しかホームページに掲載がない場合がある。会員以外にも、発表から数年経ったものは、公開すべき。 もし、できない学協会であれば、非会員からの要請を受けて、梗概をメールで送るような仕組みを、公益法人はするような仕組みを作るべき。 学術雑誌をオープンアクセスにすることが望ましいが、現状ではそのコストを著者が負担するか雑誌の購入者負担することになっている。今回の調査がその負担を公共の機関が担ってくれるようにするための一助となってほしい。。 学術誌の購読料が高いので、印刷前の形態でもよいので無料で、かつ複写取り寄せなどの時間のロスなく読めるようになるのはありがたい。 企業における研究活動で困っていることの一つに、有料の論文サイトへのアクセスが容易でない場合があることが挙げられます。会社で購読している論文でない場合、私費で論文を購入でもしない限り入手困難です。オープンアクセスはそのような企業で研究活動を行う際のハードルの一つを取り除く可能性があり、大変期待しています。 企業の研究者にとって、論文取得費用は増大する傾向にあるので、オープンアクセスが一般化してくれるとありがたい。 企業の研究者にとっては、やはり企業の利益に資するかどうか、もしくは、企業の不利益につながらないかと言う観点が必要。 とりわけ、特許性のある論文の場合、特許成立の前に公開することはないだろうと思う。 基本的に論文が自由に読めるようになることは歓迎です. 既に公開された論文をオープンアクセスにすることについては、助かります。近年、論文雑誌の電子ジャーナル維持費が上昇を続けており、困っているのが実際です。 自分の論文をオープンアクセスにする場合は、学外との共同研究の場合、研究者間で合意を取っておく必要があり、やや面倒に思うことがあります。特にコレスポンディングオーサーでないときに自分の所属から論文をオープンアクセスにしてしまうことには、共同研究者との関係を配慮すると難しいように思っています。 近年,学術論文の価格が上昇しつづけている中で,オープンアクセスの論文は 非常に貴重な研究資源である.研究とは,本来研究者のアイデアや技術を元に 実行されるべきであり,資金力に左右されるべきでない.そのため,これから は,オープンアクセス論文への投稿を推奨し,その論文の質を高めていくこと が重要である. ただし,カレントデータなど研究データの共有化およびウェブストレージへの 保存はセキュリティー対策をしっかりと行わなければならない.さもなければ, 貴重なデータの流出が発生し,特許の取得などが困難になる可能性がある. 最近では官公庁のネットワークサーバーに不正アクセスが発生するなど,日本 のインターネットセキュリティーはまだまだ問題が存在している.そのため, カレントデータなどの共有化に関しては,今後慎重に実施しなければいけないと 思う. 近年、論文のオープンアクセス化が叫ばれるあまり、ハゲタカ出版の雑誌で論文を公表してしまう研究者が増えている気がする。国としてもハゲタカ出版の雑誌に対して、今以上に注意喚起することが必要だと思う。 掲載後1年以降は、オープンアクセスにするのが現状良いと思っています。学会の収益も確保しつつ、過去データは公開して全世界の方に見てもらって審議する大事さの機運が高まっていると思います。 権威のある雑誌に掲載された論文をオープンアクセスにするのに多額の費用が必要。 掲載料のいらないオープンアクセスの雑誌は、その論文誌の評価が不明。(コミュニティ内では、おそらく評価されていないのでは) 現在、論文の閲覧料金は高騰しており、大きい大学等でないと、殆ど見る、ダウンロードすることができない。 オープンアクセスは、弱小地方公立大学理系学部にとってとてもありがたい。 が、オープンアクセスで読める論文はそれほど良い内容でもない。 良い内容は、IFが高い、ブランド論文に載っているので、結局参考にしたい論文は手に入らない。 意見になっていないがオープンアクセスを充実させてもあまり意味は無いかとも思う。 現状、オープンアクセス可能な論文は、査読が甘いなど雑誌に掲載されているものと比べて、データ信用性に課題があるように感じています。ソースの信用性を含めて、整備が必要と考えます。 個人的には、論文やデータはもっとオープンに公開される方が、人類の理に適うと考えます。各雑誌が閲覧制限を行い、閲覧費用が高騰するのは、閲覧できる関係者が制限られるため、ビジネス的な視点は理解できるものの、本来の論文が持つ目的が制限されているように思います。但し、高品質な査読により論文の品質を保つことは非常に重要な側面を持つため、これらの問題を解決しうる新しいスキームを構築することができれば良いと思います。 公的資金で実施された研究の成果は、広く国民に公開されるべきである。その一方で研究成果の質の評価が、おろそかになってはならない。現時点では、これを担保するためには有力な学術雑誌に、高価なOpen access費用を投じなければならない。大学図書館のリポジトリーへの投稿論文の公開に際して、学術雑誌が設定している、Embagoの問題がある。研究成果の質を維持しながら、一般公開する方法について検討する必要がある。 国からの補助金で行う研究成果は全てOAにして、誰でも見られる状態にすべきだと思います。IFの高いジャーナルに出して自分の成果を認めてもらいたいという思いは理解できますが、そのために膨大のお金を無駄にしており、また海外の著名ジャーナルに利益が渡る状況を容認してはいけないと思います。どこに論文を出したかかが問題になっている事自体が問題です。 よく研究者は一般人は自分の研究成果を見ても理解出来ないといいますが、本当に一生懸命調べたいと思えば調べられるし、また予算削減によりジャーナル閲覧を自由に行えない大学(地方や私大)もたくさんあります。少なくてもアクセスの権利は平等に与えられるべきであると思います。 また最近少しずつ取り上げされてきている図表のオープン化なども、評価できる体制があれば行っていく研究者もいると思います。オープンサイエンスは必然的に起こるものですが、ある意味誰でも好きなようにシェアできるようになると、その評価をどの様に行うのかが大きな課題になります。オープン化のプラットフォームと評価体制の二つを同時に構築していく事がfunding agencyに求められると思います。 国家予算をつかった研究(国立大学における研究も含む)は、少なくとも論文は無料で公開すべきと考える。出版社の食い物にされない対策をお願いします。 今回の調査は、今ひとつ何を聞きたいのかよく分かりませんでした。 重要なのは「生データ」の公開ではなく、「オープンアクセスジャーナル」の問題だと思います。オープンアクセスジャーナルは、visibilityの高さや著作権保持の点で優れていることは認めますが、掲載に10万円以上の費用がかかります。ジャーナルによっては、年間の科研費(基盤C)の半分近くの資金を費やすことになります。このため、潤沢な研究資金を持つ研究者以外はオープンアクセスジャーナルを投稿先として選ぶことを躊躇します。従って、文科省(日本学術振興会)は、オープンアクセスジャーナルへの投稿を推進したいのであれば、そのための予算的な裏付けを担保すべきだと思います。 ただ、個人的にはオープンアクセスジャーナルへの投稿を推進するのではなく、購読料が必要なジャーナルへのアクセス権を、国内の全研究者が持てるよう、Elsevierなどと(大学ごとではなく)国家レベルでの契約を行うべきだと感じています。 査読つき論文(本文を指しSupplementary Informationを指さない)がサイエンス発展の中核となっている現状を変える必要はないと考える。査読つき論文を、有償購読契約の有無のかかわらず全世界の読者に公開する方策としてオープンサイエンスを支持する。ただし、最先端研究(論文公開から1年間)の閲覧を有償購読契約者のみに限定することは合理性がある。査読つき論文の主張を支える実験データを一部であっても論文本文から分離してSupplementary Informationに掲載する風潮には断固反対する。反対の理由は、査読つき論文の主張を支える実験データはすべて論文本文に掲載すべきであるから。査読にあたる査読者は、本文以外の部分に掲載された情報までを吟味する時間がないことが多い。結果として、査読つき論文本文があたかも論文抄録のようになってしまい、そこに書かれた主張が(実験データの裏付けなしに)流布することを強く危惧する。 最近、掲載料無料などと銘打って論文を募集している機関から投稿呼びかけのメールがよく入り込む。 掲載料がかからないことは、資金に乏しい研究者がその成果を世界に発信する機会を与える一方で、本来であれば論文としてのクオリティを満たさない論文が、あたかもきちんと査読されたものであるかのようにして出回る危険性がある。 学会や論文誌の社会的役割の一つは、人類の進歩に貢献する科学的発見や研究成果を正しくオーソライズすることで、いわゆるエセ科学のような科学的根拠の乏しいものを排除するとともに、誠実な研究者に動機づけを与えることである。 そのためにはある程度の運営資金は必要であり、掲載料や購読料は「正しい科学」を維持するために必要な経費である。成果発表の低価格化により、若手の研究者がそういったことを認識できなくなることを懸念する。 データ公開についても元データの取得方法に誤りがあったり、その使い方に誤りがあったことでなんらかの損害が発生した場合、誰にどのような責任があるか明確でないまま「オープン=良いこと」の思い込みでやってる人もいるかと感じられる。特に医学系のデータの場合は個人情報の取り扱いも含めて慎重にあるべきで、オープンデータについてのあるべき姿と、法的な整備が議論されるべきであると考える。 昨今の論文誌の商業化が著しく、論文のオープンアクセス化は必要だと強く感じるが、個人業績評価や大学評価に安易にインパクトファクタの高い商業誌への投稿数などを参考にされると、オープンアクセス化は進まない。 これに対して研究者集団や政府間協定などを用いて、組織的に動かないと変わらないのではないでしょうか? 雑誌の形態を持たないオープンアクセスの商業誌で高額な投稿料を取る代わりに、フェアなレビュープロセスがされていないと思われる雑誌・出版社が存在することです このような存在が、情報公開や税金を使って研究した成果を評価する場であるとしたら、その出版社に無駄な税金が流出しているに過ぎない 雑誌の購読料がはねあがっており、対処法の一つとしては、研究者の負担にならないように、投稿料を機関等が負担することで、オープンジャーナルへの投稿を増やしていくことも一つのやり方とおもいます。 私は民間企業の人間ですが、最近は大学や公的研究機関の知財の権利主張が強くなってきたと感じています。科学の発展のためのオープンサイエンス化は良い傾向だと思いますが、それありきの議論ではなく、権利関係の課題も整備していく必要があると思います。 資金的な援助が必要である。例えば、論文をオープンアクセスにするには資金がかかる場合があるし、オープンアクセスジャーナルは投稿料が高額な場合がある。 自分の研究分野では、論文と比較して、公開データに対する社会的な意味(例えば、研究者としての評価基準)が明確でないため、積極的に利用して情報発信したいとは思いません。また、論文は、主張したいストーリーの根拠となるデータとロジックの積み重ねだと考えています。したがって、ストーリーの一部を切り取るような公開の仕方はしたくないと考えます(ミスリードによって、一部が一般化されてしまうことに対する懸念)。 出版社に支払う金額がどのケースにおいても高額化している。出版社がオープンサイエンスの意義を研究者コミュニティーと十分に議論する必要がある。 データの公開は、良心的な科学者のみで成り立っているコミュニティーの場でのみ、されるべきものである。研究推進の意図と外れて利用されることがないか、心配が付きまとう。 純粋に,メジャー出版社の購買価格が問題であることから生じた潮流でもある.オープンアクセスといっても,投稿者は高額な掲載料を支払う訳であり,中にはReviewの質も悪く,お金で投稿論文業績を買うようなケースもある.すなわち,質と量の両立の難しさの問題を抱えている.どちらにしても,IFだけでなく,良い研究・良い論文は引用数が増え,それのみが業績として評価される(評価する)時代が来る.その時にどこにデータがあるべきか,サーキュレーションしやすい(Googleにのりやすい)場所が選ばれるだけであり,それに対応した諸対策を施策として練りこむのが良いのではないかと考える. 大学のリポジトリ、研究紀要のほとんどが、CiNiiやJSTの検索サイトから速やかに閲覧できない場合が多い。結局、著名な査読付き論文(完成された論文)以外は閲覧が容易ではない状況である。 しかしながら、実際の研究現場では、研究機関のローカルな論文(査読なしのような)に載っている情報が必要になることは多く、リポジトリ、OPAC等でも速やかに閲覧できる状況になって欲しい。 日本国民の税金によって支援を受けた研究成果の発表については、できるだけ日本国民に知的財産として還元される仕組みがあるべきだと思います。多くのリポジトリサービスにおいて、公開データの詳細についての説明言語は英語です。また、公開データの生成方法や解析結果は英語の原著論文で公開されるのが常です。この言語の壁によって、市民と科学研究が隔てられ、科学研究の推進が世界に遅れをとる恐れが生じます。オープンサイエンスと国民への還元を促進するため、研究論文の日本語訳を作成することを条件として論文のオープン化を資金的にサポートするべきだと思います。クリエイティブ・コモンズで公開された論文は、その翻訳版を作成して自由に公開できるはずです。 年々増大する図書費用に対して日本全体として何とかすべきである。 オープンアクセスを広げていくことも重要であるが、高額な投稿料を負担して、結局のところ執筆者(=購読者)が負担する構図は変わらず、コストカットのためにサービス低下を招いている状況である。 有料のオープンアクセス(OA)ジャーナルには、問題の多い雑誌が多すぎます。 理想は、すべての雑誌がたとえ有料であっても一定期間後はオープンにする、 という方針を取ることです。 出版社系で、信頼できる雑誌については、オープンアクセスを選択する際の 費用がべらぼうに高いものが多く、躊躇します。論文原稿の段階を所属機関の リポジトリにアーカイブすることが許されている雑誌が多いですが、 実際、利用しにくいです(PubMedにリンクなどがあれば、使いやすいですが)。 アメリカ化学会のACS Omegaように、学会員からの投稿については、大きく ディスカウントする、といったもの、また、日本化学会の雑誌のように、 エディタに選ばれると無料でOAとなるもの、などは利用価値が高いと思います。 いずれにしても、一定期間後のオープン化などを行わないと、 読者数が限定されてしまうので、そのような雑誌は相当良い雑誌でない限り、 インパクトも落ち、内輪だけの雑誌になってしまうと思います。 国内の英文誌のOA化を補助するような方向になると、国内の学者がそこへ出す うまみも増えて、雑誌も活性化する、結果、雑誌の評価も上がる、と思います。 データ公開については、その要・不要は分野ごとに利用価値も含めて 異なると思いますので、一律公開するようにするのは非効率的と思います。 理系論文の公開には基本的には賛成するが、法学や歴史学など研究成果として単行本の上梓が重視される分野では、研究成果をオープンアクセスにすることが必ずしも分野の発展に寄与するとは限らない。単行本の編集には専門の知識を持った編集者が必要であり、多くの場合出版物として販売されることによって本の上梓に必要な諸経費がなんとかまかなえているのが現状である。オープンアクセス化することによって、逆に研究成果の発信手段を狭めてしまう恐れがある分野があることも認識すべき。日本ではオープンアクセス化は、このような問題が少ないいくつかの分野で優先的に試行し、結果を見ながら領域を広めていくのが望ましいと考える。 論文などの公開は非常に有意義だと思いますが、そうするには公刊する論文について多額の費用が必要になります。私の分野ですとひとつ論文を発表するのに、数十万円から50万円近く必要です。これは科研費若手(B)や基盤(C)の年間研究費の大部分です。従って、オープンサイエンスを進めるのには賛成ですが、実際のところ研究する為の経費に加えて、かなりの金額を追加で獲得しないといけないので、現実的ではありません。 論文にアクセスするための費用が年々増加しているためか、企業で購読できる雑誌が減っている点を懸念している。オープンアクセスはそのような傾向に歯止めをかけると期待しているが、データの質の向上が課題と考える。 論文のオープンアクセス(OA)化や、データ公開に関しては最近増加しているOAジャーナル(PLoS OneやFrontiersなど)の提供する、投稿、査読、出版のシステムは非常に整えられており、使用感は良いと思います。 また、TwitterやFacebookなどで論文公開後直ちに、同じ専門分野の方々が論文情報を共有できるように整えられているので、インターネット(SNSなど)と密接にリンクしているOAジャーナルに論文掲載することには、論文を自由に読んで貰えることだけでなく、研究コミュニティー内での論文・著者の評判などに関して、さまざまなメリットがあると考えます。 ただ、大きな問題は、インパクトファクターの上昇に伴い、論文掲載料が容易に変動して、投稿をためらう程の金額になることもしばしばあります。(例:20万円以上)また、OAジャーナルからの査読の依頼、特集号の編集作業についても、研究者が従来のピアレビューを守る精神で働くためにほぼボランティアで行っており、投稿の際の金銭的な面だけではなく、研究コミュニティ維持のための負担は大きくなっています。 OAに投稿する費用、OAでは無い雑誌からの論文ダウンロードにかかる費用、これらの壁が貴重な研究費を少なからずとも圧迫していることは確かです。これらは、研究の先取性を重要視し、よりよい雑誌に掲載を目指すライフサイエンス研究に特に顕著です。 例えば、大学や公的研究機関が運用する、共用の雑誌やデータ公開のためのサーバーシステム等は有用であると考えます。物理学、数学分野で広く受け入れられているarXivなどは、非常に良い取り組みであると考えます。 論文のオープンアクセスは結構ではあるが、投稿料が高騰しており、オープンアクセスを推進する場合はその分の予算措置が必要であろうと考える。 論文のオープンアクセス化は科学研究の発展のために是非とも進めるべきと考える。しかし、多くの研究室では研究を進めるための最低限必要な資金すら不十分であるため、実際には潤沢な資金を持つ一部の研究室でしか進んでいないと感じている。雑誌のIFなど一定の条件を課したうえで公的に補助するような仕組みがあれば良いと思う。 論文のオープンアクセス化を推奨することは、研究成果の公開促進、社会還元につながるので必要であることは理解できる。 一方で費用が掛かるため、実質的に研究費が目減りすることになるので、そうならない体制を構築する必要もあると思う。 論文をオープンアクセスにすることは、研究成果をオープンにすることで、研究機関やファンディング母体にとってメリットのある行為であると思いますが、現在では、各研究者が自身の研究費を削ってオープンアクセスにするための費用を捻出しているのが現状です。オープンアクセスにするための費用を、研究費とは別枠でサポートする体制がある方が望ましいように思います。 論文をオープンアクセスにする場合、オープンアクセス料がかかります。Nature CommunicationsやCell Reportsなどのトップジャーナルの場合、投稿料などすべてを合わせると、60万円〜100万円ほどの金額になります。 その反面、研究費は基盤研究Bでも年間400万円程度、基盤研究Cでは100万円程度であるため、オープンアクセスを選択した場合、研究費の大きな割合が投稿料に割り当てられてしまい、実際の研究に使用する研究費がかなり減ってしまいます。 ゲノムなどのデータを、データベースにアップロードするくらいなら、複数の研究室が1人の支援者を共有する程度で対応できますが、論文のオープンアクセスは、費用の補助がなければ、金銭的な理由でオープンアクセスを選択できない(もしくはオープンアクセス雑誌に投稿できない)場合もあり得ると思います。 論文をオープンアクセス化することは、世界標準になりつつあることから、特に問題があるとは感じない。雑誌の投稿費用がどんどん高くなって、学会とリンクしている雑誌では学会員にならないと投稿料をより多く払わなければならない現在の状況を考えると、オープンアクセス化との矛盾を感じるが。。。 論文をオープンアクセス化する費用が高すぎる。 論文を周知するため(特に日本発の英文雑誌に投稿した場合など)、積極的にオープンアクセスにしたいが、そのために別途費用が掛かる場合が多く、大学運営費の不足のため、なかなかオープンアクセスにできない。 研究開発では、研究機関が単独で実施しているものもあれば、民間企業との共同研究の枠組みで実施しているものや、公的な外部資金等により実施しているものもなど、さまざまなので、同じ分野の研究開発に関するデータであっても、どのような枠組みで行っているかによって、論文やデータの公開のしやすさは異なってくるのではないかと思いました。 民間企業も関わる事業等の場合、重要なデータほど公開されずらい傾向があるのではないかと思いますが、もしそれが公開されれば、有益なデータとしてオープンサイエンスの価値を高めるものになるのではないかと思います。一方で、委託事業等で研究資金を配分する機関がデータ公開等に関する指針を決めてそれに則った公開が必要になるようなケースでは、企業の事業への参加が消極的になることもあるのではないかと思いました。 カレントデータは映像や音声などのデータを取り扱う実験や研究ではデータ容量が大きくなります。保存期間も対象とするデータの種類によって考慮する必要があるでしょう。 研究分野によりますが、オープンサイエンスで論文に用いたプログラミングのコードを公開し、誰もが解析などのソフトを無料で使用できる環境になると解析ツールの製造会社や販売会社が厳しい状況になることが予想できます。 より良いオープンサイエンスの支援体制の構築に向けてご尽力されることと思います。 自由回答をお読み頂きありがとうございます。 研究の内容によっては特許や商業に関する問題以外にも、軍事やテロ、諜報活動など安全保障分野での問題も発生すると思います。個人的には自身と他者のデータを比較するなどして研究を前進させたいという欲求はありますが、長期的な研究活動を視野に入れると分野や程度によって多様かつ段階的な規制が必要かと存じます。 自然科学分野では調査研究の1次観測資料が重要と考えるが、その保全、検証、2次活用はほとんど進んでいない。 大部分が貴重な税金を投入した資料であるので、自然科学分野に関しては、1次観測資料は公開を原則として、これをデータアーカイブの専門機関(現在未存在)で集中管理、公開することが、ビッグデータ管理の可能性が広がっている将来の方向性として望ましいと考えている。 (所属機関のデータ保存機関について)データのカテゴリによって定められているものと定められていないものと二種類あります。 「カレントデータ」の意味がよく理解できていないように思います。調査の趣旨や設問の意味・背景をもう少し説明していただかないと有意な回答が難しく感じました。それは私自身のこの分野の理解が乏しいためだと思います。データ公開に関する意識の低い私のような研究者が多くはないことを願います。 1.データの最適なフォーマットや公開前の加工は、そのデータをどのような目的で何に使うかによって異なります。第三者に上記の準備を任せても、自分の使い易いように準備して貰えるという保証はありません。 2.政府も「オープンガバメント」と称してデータの公開をしています。しかし用途が全く違うので(政府は研究目的を考慮して公開しているわけではないので)、全く使えません。 3.個人情報ではありませんが、「他の用途には使いません」と約束して収集したアンケートデータ等は、公開できません。公開すれば他の用途に使われるので、約束違反となるからです。また、Internet調査会社から入手したデータについても、「他に公開しない」という条件で入手しています。 1) 研究者が主体的に進めている研究においては、得られたデータは研究者の宝物。どのデータをどのような形で誰に公開するかは、研究者本人が主体的に決めるものだと思う。なぜこのような議論をするのか、具体的に一体何を企んでいるのか、最後まで意図を理解することができなかった。 2) 分野によっては、論文の元となったデータが公開されないことで、科学の発展が阻害されるような問題が起こっているのだろうか? もしそうであれば、それが例示されていたほうが回答しやすかった。少なくともわたしたち農学や物質科学の分野ではそのような事は起こっていないので、決して全研究者を巻き込むことなく、その分野だけローカルに対策をとってほしいと願う。 3) 全体としてデータが研究者本人および共同研究者の所有物としか考えていないようだが、大学であれば、実際に手を動かした学生も利害関係者となる(学生がデータ所有権の一部を握っているとも考えられる)。そのあたりを法的にクリアできるのか疑問。このような議論を学生にふっかけても理解の彼方だと思う。納得させないと何もできない。想像しただけでも骨が折れる仕事。 4) 研究者を支援するための新しい取り組みを真剣に考え、社会から注目を浴びたい気持ちは分かる。しかし現状はそれよりも、まず基本的な部分がおろそかになっている。要するに、研究者が研究に集中できる基本的な支援体制をもっと充実させるべき。例えば研究者が入試の試験監督にまで駆り出されるという愚かな資源配分や、大学の事務員が英語のやりとりもできないせいで研究者自らが留学生の面接日時までメールで調整してるような状況をまず何とかしてほしい。私たち研究者は、時間さえあれば、あとは自力で何とかします。この実態調査を考えた人は、研究者を支援したいのか、それとも研究者を支援してますよアピールがしたいのか、よく分からない。 5) Q26 カレントデータの保存期間として適切だと思われる年数はケースバイケースではないか。今後まず使わなそうなデータであれば、保存期間は定められた最低限とするのが自然である。 6) Q29:データを論文の発表前に公開したら論文の新規性自体が消失すると思われるのだが、なぜ発表前に公開などということを想定するのだろうか疑問。データを公開してから論文を発表するなど、順序から考えて絶対にありえない。 GLPのような制度設計が必要でしょうか。 OA論文は推進すべきだが、データ公開は限定的の方がよいと思われる ある分野ではオープンサイエンスは必要であるし、役立つと思われるが、これが全ての分野にあてはまるとは思えない。臨床研究の再解析などは役立つ例。 イギリスの一部の予算では、オープンアクセスジャーナルでないと投稿費を出してもらえないと聞きました。 オープンサイエンスがサイエンスの発展に効果的であることは理解できるが、特定の国が十分なデータを出さずに利用だけしている傾向も見られる。オープンサイエンスに対する投資が適切に生かされることを望む。 オープンサイエンスが効率化に繋がる場合と、研究者に不利益となる場合があり、個々の研究の分野や目的、環境、状況、研究者自信の考え方にも依存する。必要な場合に備えてシステムを構築して準備しておくことは良いが、データの公開は、研究者の選択を最大限に尊重すべきと考える。すべてのデータがデジタルデータとして万人に利用できるようになれば、巨大IT企業によるAIの活用などによって、科学者個人の発想に基づく現在の科学研究のあり方が、将来的に変質する可能性も考慮すべきと考える。 オープンサイエンス支援体制について、知識を深めるためのセミナー等を学会を通じて行なって頂けたらと思います。 オープンされたデータの誤用や悪用、不適切な商業利用といった副作用を防止する措置を事前に確立して欲しい。 オープンデータは現在は玉石混淆の状態で、信頼性にかける点があるが、整備が進めば研究者共通の資産となり得ると思う。 カレントデータの公開の強制は難しいと思います このような調査は, 研究倫理の観点から重要と思われる。 強制ではなく, 自然に提供できる環境を作り出すことが先決で, より一層このような調査がなされることをキタイシタイ、 これまでデータの公開を消極的に考えてきましたが、本調査を通じ、効率的な社会貢献を考えた場合、やり方によっては重要である可能性があるため、積極的に考える姿勢も大事かと考え直しました。貴重な機会を与えていただき、ありがとうございました。 "これまではいくつかの決まった学術雑誌に自分の研究成果を発表してきた。出来るだけ多くの人に読んでもらえるように”Impact Factor""の高い雑誌を選んで投稿している。 自分の成果をネット上でオープンにすることなど考えもしなかったし、していない。オープンにすると、査読者もいない状態でデータがネット上に氾濫し、無責任状態となり悪影響が出ると思う。 " それなりに完成度の高い論文は、特許検索(例えばJ-PlatPat)のように、キーワードで検索出来るデータベースがあると良い。 データーの公開が必要かどうかは疑問。これは任意に行うべきものではなかろうか? データがどのように利用されたかを追跡できる仕組みが必要ではないかと思います. データそのものを保存することも大切ですが、データをどうやって解析したかという手順も紐づけて保存する必要があると思います。Pythonノートブックのような実行可能な形で残しておくとよいと思います。 データといっても、再利用可能なものとそうでない当該研究に特異(固有)ものに大別されると思う。前者については、できる限り広く共有して、研究者がデータに振り回される時間を最小化して、本来の知的生産行為に時間を費せることが望まれる。 データのみならず、ソースコード等可能な限り公開して再現性を担保することが望ましいと思います。ただし、公開された情報の業績評価へのリンクを確立する必要があります。 データの公開については、分野によって大きく事情が異なること、ご留意いただければと思います。その意味で、研究分野の区分けが大きすぎると感じました。(例えば、「工学」だけでは幅広すぎます。)よって、統計データのもつ意味は少ないので、解釈をきちんと整理してください。 データの公開には研究者間のコンセンサスが必要だと思います。論文数等の実績主義が横行する中で、オープンネスをどこまで推奨するのでしょう。この流れに極めて懐疑的です。 データの公開の義務化は, やりすぎだと思う. データの公開は,公金を使用して研究を行う場合必要だと思います。 ただ,一方でデータを取得するにも多くの時間と労力を要するので,データを公開する場合,その点を担保する何かが必要であると考えます。 データの公開は、オープンに行うのではなく、データをダウンロードする方の所属や名前を明らかにしたうえで、データの利用に関して注意事項や要望事項を順守させるような法整備が必要と考えます。 論文の閲覧は自由に行って頂くようになるのは異論がありません。 データの公開は、現在個別のソース(たとえば、個別のHP)で行われており、かつ、フォーマットもソース間で異なる。メタ解析を行う場合は、これらのデータの収集、フォーマットの統一などを一から行う必要があり、膨大な時間を要する。政府主導で一元的にデータを管理するシステムを構築し、データの検索・抽出システムや統一フォーマットデータの提供を行えば、データのリサイクルやメタ解析分野の研究が進むと思われる。ただし、統一フォーマットの構築等、大きな苦労は予想される。 データの公開は科学・技術の発展にとって重要であると思います。米国でのシェール革命におきまして、弛まない研究・技術開発がこのような技術イノベーションに結実したことは言うまでもありませんが、様々な環境がイノベーションの生起にpositiveに作用したことが指摘されています。とりわけ、ここでは豊富な地質データの入手のしやすさを取り上げたいと思います。米国では、公的資金で取得されたデータは公的に還元する(つまり公開する)ことが当たり前のことになっています。例えば、科学データを取得する研究者の立場で考えますと、独占した方が研究成果を出せると考えがちですが、むしろ積極的に公開して競争的環境に仕向けることの方が、多角的なアプローチが採用され、結果として周りを含めて優れた成果を出し、公的資金を有効的かつ効率的使用するばかりで無く、計り知れないイノベーションを生む環境を醸成します。戦略的に大きなフレームを醸成していくことが、広く科学・技術を進歩させ、公共の利益を最大化することができます。この場合、国が公開を促進する政策を立てることが重要と思います。 データの公開は論文のグラフ等で十分だとは思います。データがほしい場合は著者に問い合わせて、請求すればいいと思います。 データの公開時期については論文公開後が基本的にはのぞましい。 また何らかの手段/方法でクオリティについて判断可能であるとよい、他分野の研究者の利用において、クオリティの異なる複数データセットを一律に扱い、間違った結論を導きうることについて危惧がある。 データの種類によって方針は異なる。 天文学の場合、観測データそのものは観測所の所有物として一定期間の後公開されるが、多くの場合、データ処理が必要で、解析処理後のデータについての公開は整備されていない。保存期間についても、観測データは永久に保存すべきだが、論文の信頼性を検証するためのデータは一定期間の保存でもよいと考えられる。 データは研究者のOriginarityに直結するため安易な公開は不要と考える。一方で広くdistributionする必要性が高いデータもあり、例えばとある病状の遺伝子情報などはそれにあたる。その際には公開した研究者にcontributionが明確に分かることが重要であり、それを皆が認知していれば公開データも今後は広まってくると考える。 データは最終的には論文やそのサプリメントで公開されるので、カレントデータを公開する意義がよくわかりませんでした。 データを利用することの多い専門分野に属しているが、オープンサイエンスについては、やや慎重に考えるべきであると思っている。データ取得者の権利をどこまで容認するのかは学術分野の違いによっても異なるだろうし、出版論文数が評価の基準として認められている昨今、データを取得したものを著者として含めると研究者の評価がまた難しくなる。つまりデータを取ったというだけで業績になるのは、科学学術の発展にとって必ずしも望ましい状況ではないと思う。 このあたり、若手研究者にとっては就職に直結する問題でもあるし、すべての研究者にとって研究費の公募などでも参考にされる。データを得ることは研究の一部ではあってもそれを得ただけで業績として扱われるのは、問題であると思う。 データ自身の信頼性をどのように保障するか,また,データの特性と正しい使い方をどのように利用者に理解してもらうかが難しいと感じている. なぜ研究者はオープンサイエンスの推進にかられているのかがわからない。 「科学技術予測センター」によるアンケート調査はいつも設問数が多すぎて疲れる。 ピアレビューだけでなく、データの信憑性を担保する仕組みがあると良いと思う。現状では、雑誌の信憑性が論文の信憑性になっている気がする。 ほとんど縁のない質問でした、参考にはならないと思います。 レビューを受けた論文の公開は良いが, これを受けていないデータは独り歩きすると危険なので,公開は望ましくないと思います 医学系のデータがオープンに手に入れば医工連携が進むのではないか 一部の商業誌に利権を握られ、研究成果の発信の平等性が損なわれている現状は正常ではなく、科学技術の発展を妨げている要因にすらなっていると考えており、オープンサイエンス化はきわめて重要な課題だと捉えています。一方、一定のまとまりと信頼性が担保される論文ではなく、カレントデータの公開については、工学分野においてはデータの整理、信頼性の担保、更新・差替えのルール、および論文におけるCorresponding Authorにあたる者の責任など解決するべき課題が多く、時期尚早ではないかとも考えます。 営利目的の新たな科学雑誌が年々増加しており、 情報の正確さ等を十分判断することが難しいケースがある。 情報を収集する上で大きな問題であると考えられ、新たな科学誌の出版には一定の基準、もしくは認定マークなどを設けると研究者の助けになるのではないかと考える。 何でもかんでもオープンにすれば良いという訳ではないと思う. 特に, 核となる技術については非公開としたいと感じる. 何でも公開前提で仕組みを作ると、維持管理と検索が大変になると考える。例えば論文を読んだ後に、著者に連絡してデータを提供してもらえるような仕組みと習慣が出来れば良いと思う。情報は多ければ良いというものではなく、必要なものが必要に応じて手に入ることが重要かと考える。あまりに情報が多いのは公開する側、検索する側にも負担が大きいのではないか。 科学にとって最も大切なものは創造性と動機であり、ごく一部を除いてデータの公開はこれと反する可能性があるし、役に立たない。ただし学問分野にもよる事は事実である。結論から言うと偽の論文が問題になる現状でこのような事を進める意味が理解できない。特に生物化学、基礎医学の観点からはそのような思いが強い。 科学技術予測センター専門調査員などに依頼して回収したアンケート回答が学術研究の発展に寄与する研究等に活用されることに異論はありません.しかし,「論文等に利用することがある」ということの中に,(内容にかかわらずあくまで個人のためのものである)博士学位論文までもが含まれていることに違和感を持ちました. 本調査に関わる特定の個人だけが,博士論文作成に当たって必要な調査をこのネットワークを介して行うということが,許容されるかどうかの問題です.いずれにしても,アンケート回収の目的の範囲を逸脱しない範囲で,データを適切に処理・活用されますよう,どうかよろしくお願い申し上げます. 我々の分野では特に必要があるとは思えないので、全体で取り組むのではなく、データ公開が必要で有益と思われる特定の分野(生物学など)で対策を考えればよいのではないかと思います。 我が国の科学研究においても,論文やデータの公開,オープンサイエンスは,今後必要になる可能性を感じています.しかし,全ての科学領域で同時に促進政策をトライすると,資金や人的ロスも大きくなると予測されます.そのため,まずは,論文やデータの公開,オープンサイエンスに最適な研究領域に絞ってのトライアルが望ましいと考えます. 会員制でも、インターネット上で自由に最新データが閲覧できることは、異分野の勉強をする上でも、最新技術を学ぶためにも有意義であると考えます。さらにオープンにすることが広まれば、日本全体の科学技術の進歩やその底上げにも貢献するのではないでしょうか。 企業の研究所で研究員をしています。 企業での製品開発に直結する研究では、研究データを公開することに企業側が抵抗感を持っています。一方で、研究者は研究データを公開、交換し合うことで、研究が加速するとも期待しています。企業側のオープンサイエンスへの考え方を変えるような働きかけ、制度作りが求められると思います。 企業の職務R&Dに関しては,基本的には契約に基づかない公開は不可能である。ライセンス関係がクリアになれば,開発速度向上というメリットがあり,積極的に利用したいと考える。 基本的には賛成ですが,権利や二次利用の諸問題が解決しない限り普及は難しいと思います.オープンアクセスジャーナルは,明らかに商用目的の似非学術誌がたくさんあることで,その信頼性に疑問符がついています.理念は良いですが,似非学術誌をどう排除するか,学会や公的機関が共同宣言を採択するなどして,信用性を保つ工夫をしないと,全体が衰退していく恐れがあります. 義務ではなく、任意で公開する形が良いかと思います。他は、特に意見はありません。 興味がない 近年、政治上の問題から国をまたいだデータの公開や取得が難しくなりつつある状況にあり、対応に苦慮しているところです。 近年、論文に掲載されるデータの生データが巨大になっており、その統計的分析結果の再現性や解釈がとても重要となっているが、生データが公開されないために、その検討が極めて困難である。今後、論文掲載とともに、生データを安全に公開することが重要になってくると考える。 建設コンサルタント勤務の技術者。会社勤務の技術者であっても業務に通じる技術のを研究、発表をすることは自身の技術力向上につながるはずであるが、なかなかそこまでは手が回らない(研究職ではないので)。企業の技術者にとっては現在学術機関で取り組まれている情報、新技術を確認することは必要。各種の有用な情報が確認できる総括的なシステムがあればと思う。←知らないだけかもしれないが。 研究に用いたデータは公開されるのがよく、それが再利用しやすい形で、適切なメタ情報と共に保管されるようになっていくのが、今後の科学のあり方にとって重要なことだと考えています。 研究の世界は移り変わりが激しいため、統一したデータフォーマットを作れるかどうか、またその耐用年数がどれくらいになるのかが気になる。 研究の本質的なところを簡潔にまとめた原著論文を出版することがオープンサイエンスの原点だと思いますが、莫大なデータ量の使用する分野では技術情報の開示方法が変わりつつあるという事でしょうか。 「研究データの開示」という点について、本アンケートの意図を十分に汲み取れていないように感じました。 研究リソースの重複投資を避けるためにも、オープン化は一刻も早く進めるべきだと思う。 研究を進める上で,大学が定期購読していない雑誌に掲載された論文は,図書館へ複写依頼を出して取得するまでに時間がかかり,また,デジタルデータで得られないために使い勝手が悪い.https://arxiv.org/のように,研究者が自由に論文内容を閲覧できるシステムが充実するのなら,ぜひ進めて頂きたい. 研究過程において,どの時点で,どこまで公開できるのかは難しい判断が必要です.研究班で,総括者を中心に十分に議論して,注意深く進めていくべきと思います.流行やインパクトファクタを気にしすぎたり,出版ビジネスにあおられて,不用意な公開をすることはなるべく避けるべきだと思います. また,中国のように,情報の公開は余り行わず,専ら先進国からのデータを活用を(盗用かもしれませんが)するところもありますから,公平性,互恵性が確保される制度作りも大事だと思います. 私の分野では,日本語のデータは,グローバルな研究をしていて,役に立たないので,(科学研究には,)英語で論文を書くだけでなく,基本データのまとめや研究日誌での記述にも,常日頃から英語で行う訓練を,若手研究者には求めたいと思います. 日本からの論文数が減少気味なことの一つには,日本語で(論文とは通用しない)書き物がおおいことも,あるのではないかと思います(本件の筋とは違いますが) 研究機関を離れて、民間の会社を経営している者です。 研究データの公開に関しては研究機関の中で行うのではなく、国が民間企業をサポートしてサービス、ツールを発展させ、研究者グループ、研究者個人が直接利用する形を目指すのが妥当と考えています。 理由は以下のとおりです。 公開の手法はあまり研究分野に依存せず、ほぼ同一である 研究機関、グループごとに担当を置くのは効率が悪い 小規模な民間企業の公開が容易になる ネットショップなどのECの手法を発展させれば、論文公開は容易 研究機関が組織として管理する必要性がない 競争の原理が働く 研究者の組織間での移動に対するサポートが期待できる 研究資金は増額されないのに、オープンアクセス費用がかさめば、それだけ研究資材に回す費用が減ってしまう オープンアクセスが業績とならないのに義務化されれば、さらに時間の負担だけが増す 論文以外の情報は信頼性に欠けるため、最低でも鵜呑みにすることはない 論文前のデータの公開には賛成できない 研究者ではない人たちへの質問ではなかった。専門家ではあるが、研究者ではない(論文を作成しない)人たちへの質問も入れるべきだと思う。 研究者や関連技術者の倫理教育 第三者機関による、公開システムの特徴、信頼性などの評価とその結果の公開 研究成果がシミュレーション結果であったり、観測データのリアルタイムでの公開の場合がある。このようなとき、どのように利用されていくのか、提供側が想定しきれない場合もあるし、現時点では予測精度が悪いものもある。公開といっても、「研究中として公開」しているものもあるし、「成果として公開」しているものもあるので、そのあたりは区分した方が答えやすいと感じた。 研究成果の公開方法の選択は、研究者各位のアイデンティティに関わることであると考えます。公的資金を活用した研究であれば成果公開は義務付けられるのは当然とは思いますが、それ以外のデータまで”グローバル化”、”オープンサイエンス”という一種のはやりに併せて公開していく必要はないと考えます。 仮に、我が国の研究力を示す指標として、オープンサイエンスへの寄与が必要であるとするのであれば、各研究機関にオープンサイエンスの支援を行うのではなく、JSTやNEDOなどの研究助成機関にオープンサイエンスの権利を集約するべきではないでしょうか。 研究成果の自由な閲覧は,将来,研究成果を生み出す研究者の権利として,広く認められるように可能な限りオープンアクセスが広く波及することを願います. 研究分野が多様化しているなかで、その価値、方法論は異なってくると思います。オープンサイエンスが求められている分野を特定・明確化された方がよいと思います(例えば、研究データの捏造等が多い分野?)。 研究分野によって、データの公開の重要性、必要性はかなり異なると思う。論文や学会発表してしまうと、特許権を喪失する問題と同様、世間はどんどんデータを開示しない方向に進んでいると考えられ、また、リスクも伴うため、全面的には賛成できない。 研究分野や所属機関の違いによってオープンアクセスに対する考え方や方法について、どのような点が異なっているのか?情報を知り吟味する必要があると思う。 研究用に加工された資料自体が知的財産として残すべき場合は過去にもあり、古いものも含めて組織的に残す工夫が必要である。 原料作物部門に所属しているため、カレントデータについては、ほとんど参考になるようなインプットが出来ませんでした 個人的には異分野の論文、データへのアクセス方法に疎いため、異分野の人からも解りやすい配慮、方法があればよい。 公開することで、研究が活性化する側面と、それを悪用(データ提供者よりも先に論文化、権利化等)される側面とがあり、それらのバランスをどうとるかは難しい問題だと思います。 公開することで注目されハッキング攻撃を受ける危険性がある世情であり、ハッカー対策を十分に行う必要があると思います。 公開する側もされる側も分かり易いシステムの構築を望みます 公開データのオープンアクセスは意味があると思います。 カレントデータを公開して誰でも見れるようにするのは、意義を感じません。 すべてのデータは、誰がどのような目的で収集し整理したものであるか?責任はだれにあるのか?をはっきりさせないといけない。 なんでも公開すればいいというものではないと思います。 公開データの信頼性が懸念されます。意図の有無に関わらない誤ったデータや偏った考えに基づくデータが広く先に行き渡ってしまうと、その影響がその後の研究開発の方向性を誤らせるリスクがあるかと思います。そのため、無料やアクセスしやすい情報を発信するときは、特に査読や一定の科学的審査が重要と考えます。 技術調査をするに当たり、雑誌社、出版社に対する高額な費用が負担になっています。質の向上、査読の充実を踏まえると一定は許容できますが、高い利益率であるのであれば今後の科学発展のためにはより低額であるべきと考えます。 調査の際に利用する資料について著作権の厳格化の流れを感じており、その中で正当な引用までも萎縮していないか問題意識があります。著作権の厳格化が、正当な権利の防衛というよりも著作権料の徴収やビジネス上の材料化へ利用されているような風潮を感じます。 公開といっても、国内外問わず誰に対してもオープンではなく、ある枠組み・審議を経た状態でのアクセスも今後は必要になるのではと考える。(データに対するセキュリティの観点として。) 工学のうち、都市スケールなどの大きさであれば、データが集計データの形式も採用できるので、個人情報の保護に留意しながらデータの公開が行いやすい分野だと思う。さらに背景地図の情報、国勢調査をはじめとした統計情報も公的機関により作成、公開が進んでいるため、各研究者が独自に収集した例えばフィールド調査のプロット結果収集したデータの処理ツールなどが公開されると良いのではないか。 工学分野では、商品化に近づくレベルでは、公開は難しくなる。 一方、公開して、他社の意見、反応を早期に知ることも重要である。 そのバランスを、どの基準で行うか?研究者の判断によるが、難しい選択となる。 購読や掲載に高い費用をとる商業誌は問題である。多くの場合、掲載される論文のもとになったデータは、税金でされた研究であり、成果には広くアクセスできるようにして、社会に還元されるべきである。オープンアクセス(少なくとも掲載後6か月以降にオープンアクセス)にするのは必須であると思う。 また、査読プロセスは研究者のボランティアであるが、雑誌が乱立した現在、毎週のように査読依頼が来ており、必要以上に雑誌が増えすぎているのは大変問題に感じる。グラントの側で掲載が推奨される雑誌を指定することによって、無数にある雑誌の中に淘汰圧をかけることが重要であると思う。 今のところ,利便性のほうを多く感じるが,果てしないオープン化に今後も何も問題が起こらないかどうか不安に感じることもある。 今のところオープンサイエンスがコミュニティの中では主流ではありませんが、研究推進・普及上のメリットがあれば利用を考えたいと思います。 今回の御調査の対象である学術論文の執筆が小職の主業務ではないため、Q1にて「研究を行ったことはない(口頭発表や論文出版の経験はない)」と回答させて頂きました。小職はシンクタンクの研究員として、企業経営を研究領域とした論文・レポートを弊社媒体および外部媒体(マスコミや民間企業の雑誌・業界紙・WEBサイト等)にて数多く発表しております。弊社媒体の論文・レポート・コラムはすべて弊社ホームページにて公開され、外部媒体に寄稿した論文もネットで公開されることが多くなっています。また、御存知の通り、中央官庁から我々シンクタンクが受託した調査研究の報告書は、原則ネットで公開されています。これらの文献は学術論文のカテゴリーには含まれませんが、学術界、行政、産業界、マスコミなどイノベーション創出に関わりうる幅広い方々にネット検索を通じて御活用頂いております。例えば、学術論文(学術界)や記事(マスコミ)を執筆される際に参考文献・引用文献として御活用頂いたり、論文の内容についてヒアリングを受けたり、論文閲覧を契機に講演・論文執筆・調査研究等の御依頼を受けたりすることもあります。また、小職はこれまでの論文執筆などを通じた研究実績・政策提言を評価して頂き、明治大学から経営学部特別招聘教授に任用して頂きました(2014〜2016年度)。このような事を通じて、我々シンクタンクの研究員が執筆する論文や報告書も微力ながら、イノベーション創出の一助になっていると考えております。次回の御調査では、学術論文にとどまらず、シンクタンクの論文等も御調査の対象に加えることを御検討頂ければ幸いです。 今回の調査で「論文の補足資料によるデータの公開」というのが、少量のデータのみのいわゆるSupporting Informationとしての公開も含むのかどうか、「カレントデータ」は論文に掲載したデータ(グラフとして加工したもの)も含むのかどうか、が分からず、判断に迷った。 今回の調査についての結果をわかりやすく分析して公表してもらえると有り難い。 今後、論文やデータ公開は非常に重要になると考えられる。その際、不特定多数ではなく、それを本当に必要としている研究者などがデータを閲覧できるシステムの構築が必要と考えられる。 産学連携、技術移転という視点で考えたときに、JSTさんが運営されている「新技術説明会」は有意義な活動を展開されているかと推察します。PPTスライド等も、発表資料のアーカイブスとして、検索で拾えるようになっているので、検索で出てくるので便利、と企業のかたからきいたことがあります。 著作権などの観点で難しいこともあるかもしれませんが、講演の様子と投影するスライドを、セットにして、分野ごとに大学および研究機関の先生方のプレゼンテーションをアーカイブ化し、投稿・保存できるようなフレームがつくれるとよいのではと思います。JMOOCなどのフレームともコラボしていくのも親和性が高いかもしれません。 使っている公開データは商用利用している企業もある。また外国機関にいいところを持っていかれる可能性があり、必ずしも国益に資さない可能性がある。 私たちの分野では,研究データといえば,過去の論文や図書です.これらを完全にオープンにしてしまうと出版業界の経営が成り立たないので,劣悪な出版物が増えるように思います. 私の研究分野は数学と計算機科学の中間に位置する.この分野の場合,arXivもしくは自分のウェブサイトに論文を公開するのが普通である.実質的なオープンアクセスとなっていると思う. また論文の発表の前に,研究集会や会議などで成果を発表することもよくある.よほどの専門家でなければ,それを理解して,論文にすることはできないので,盗作の心配はない. データを取るということはなく,すべては論文に書いてある.それ以上は何もない.なので,カレントデータ(?)の共有の問題はない. 少し古い論文を読みたいとき,ウェブサイトの更新をあまりしない人の論文を読みたいとき,自分が亡くなった後,などの状況を考えると,何らかの方法で無料で論文を読む方法を模索したほうが良いと思う. オープンアクセスが進まない理由はいくつか考えられるが,一番はインパクトファクターの高い雑誌に投稿しようとすると,無料で掲載できるので,わざわざお金を払ってオープンアクセスにしようとはしないこと.オープンアクセスの助成はあるが,掲載決定後数日以内にオープンアクセスのための費用を支払う必要があるが,助成の申請を予めしておかないといけないため,時間的に難しいこと.ウェブに載せておけばとりあえずは事足りること.などがあげられると思う. 私の博士論文が大学のサイトで公開されています。 先日その論文を引用され新聞記事になっていました。その記事の内容は執筆者の都合の良い部分だけ引用された感はありましたが、私自身は引用されたことの喜びの方が強かったです。 私の分野に限ってですが,論文検索によって集める程度ですが,適当な情報を集めることができますので,公開は結構進んでいるのではないかと思ってます. 実験的に決定した結晶構造を報告する際は、測定データ(生データ)の提出を義務付けているジャーナルもあり(例えば国際結晶学連合の雑誌)、そのための標準的なデータフォーマットと公開体制も整備されている。 このように、データの持つ意味/価値と(再)利用方法は分野ごとに異なるので、分野ごとに体制を整備していくことが必要であり、分野横断型の公開システムは、データを発信する側、利用する側のどちらにとっても使いづらいと思われる。 主観ではあるが、情報の信頼度、そこに責任をもつことに鈍感な人ほどオープンサイエンスに積極的であり、周囲にもそれを義務付けようとする傾向があるように思う。しかし、往々にして、大きなお世話・・・と感じる話が多い。 それを踏まえて、自分の考えを書くと、研究情報の場合、論文や標準データなどの情報は可能な限りオープンであることが望ましい。これらは著者が自身の名前を公表して、その内容にも責任を持って発表するものだからである。 一方、論文等で公開しないような種の情報については、オープンを義務付けないのが大前提であるべきと思う。特に近年は、悪意を持ってこうした情報を読み、無責任に非難中傷するケースが目立つので、むやみに情報公開を強制すべきではない。 近年、論文の捏造やコンプライアンスの問題で、何事にも「うしろめたいことがなければ公開すべき!」という論調の説が増えているが、個人的には反対である。学術情報は、従来通り、発表者のモラルを信じるべきで、モラルを重視する教育をするだけでよい。第三者が余計な正義感を出さなくても、信頼性の低い情報は、淘汰されるものだと思う。 また、インターネット上には、浅い見識や悪意を持って間違った情報を発信する者も多い。そしてその影響は看過できないほど大きい。こうした状況下で情報公開を検討する場合、情報の発信元が、その発信情報にどの程度の責任を持っているのかが重要となる。 以上を踏まえ、情報公開を促進するのなら、不用意に公開を促す前に公開元の情報信頼度が格付けされる体制を整えるべきであり、論文同様に、自信がある情報は信頼度の高いサイトで公開、自信はないが公開したい情報は信頼度の低いサイトで公開、自信の有無に関係なく公開したくない情報は公開を拒否できるような体制を整備することが先だと思う。 情報は、有効に活用されるメリット以上に、悪用されたときのデメリットが大きく取り返しがつかない。性善説に則って見切り発車するよりも、性悪説に則って慎重に検討すべきである。最近の政府の政策は、見切り発車が多いので心配だ。 出版済み論文の公開には、各論文誌により取り扱いも変わるため、全ての雑誌がオープンアクセスにならない限り難しいのではないか? また、データの公開も、公開が許可された論文以外のものは、困難である。 論文と直接関係しないデータを公開することに意味のある性格の研究とそうでない研究があり、多くは、公開することによりデメリットを受けると考える。また研究者の多くは論文にならない仕事はしないので、公開できるインフラを整えても利用者が少ないのではないか? 論文・特許は、開発・発明をまねのできる技術にすることにつながるが、データ公開は一歩間違えると独自ノウハウの流出になる。汎用性を持ってしまった産業はわが国では発展できない昨今の状況の中、独自技術をいかに守り、如何に次の独自技術に発展させるか、を考えなければならないので、データ公開には、極めて繊細な注意が必要である。 オープンサイエンスは聞こえは良いが、オープンレベルは十分精査されなければならない。 出版社が乱立する傾向にあり、かえって検索や利用が複雑になってきているように感じる。 純粋数学の研究は基本的に出版される論文が全てであり、カレントデータ等の概念が希薄であり、一部の質問には「わからない」と答えざるを得なかった。 純粋数学の場合、発表論文を読めば、専門家なら全てを理解できる(証明できる)ようになっており、データというのは計算の細かい点とかいうものになると思うが、それは、読者が自分で再現できるものである。論文をしっかり読んでも理解できないものはレフリーに引っかかって、発表できない。それでも、計算を間違ったりして一部間違った論文が、レフリーが誤りを見過ごしてしまい、発表されることもないことはないが、著者本人が気付いたり、第三者が気付いて著者に注意すれば雑誌にErrataが投稿され追加される。論文を引用しようとする研究者は、内容を理解してから引用しており(そうでないと自分の論文にも間違いを引き継いでしまう)、もし引用論文の間違いに気付けば、それを引用した論文の中で注をもうけて、間違いを指摘し修正したりする。このような問題は、生命科学から端を発していると思うが、大掛かりな実験をしなければ再現できない実験系の分野と、読者が自分の頭で考えて再現できる理論系の分野では事情が全く異なると思われる。 所属機関単位でなく国として一括して整理・保管するのが望ましい。 将来的な商用利用を想定した研究を行う場合、研究した根幹技術の周辺データは、論文化だけでなく企業にとっては開発ソースになりうるノウハウであることがあるため、企業としてはできる限りデータは最小限の公表にしたほうがよいという意向を持ちやすい。 小保方問題などを見ると,基礎研究におけるオープンサイエンスの重要性は理解できる.ただし,分野や研究のレベルによっては大きく状況が異なるので,それを踏まえた議論が望ましい. 少額課金システム構築に公金を投入し、PDF記事数頁を 1件読むと 100円、公開データを 1件ダウンロードすると 500円が簡単に支払えて大学/公的研究機関の収入になるとかいうシステムが構築されると良いのではないか。 情報が溢れている昨今で、研究データをどのように利用しやすい形で公開するのか、重要ですが、難しいような気もします。 情報を積極的に公開して科学技術の推進を図りたい。 新規性、独創性、独自性、優位性、など研究論文発表に不可欠な複数要素が担保されない危険性が高いので、オープンサイエンス実施には懐疑的である。 数学は純粋に理論的な研究分野であるため、実証研究的な意味合いでのデータというものは存在せず、(数表・分類表などのように)特定の数学的事実を網羅的にまとめたものや、抽象的・一般的事実の具体例を提示するものとしてのみデータが扱われることになる。従って、数学においてはデータそのものに対して価値を見出すことは多くない。データの公開など、その取扱いについても特に注意を要するような事例は稀であると考えられる。 一方で、データの秘匿性などは問題とならないため、数学においては速報性の高いプレプリントサーバーへのプレプリント投稿は非常に活発に行われている。そこでは査読を経ていないため、利用者が各自で論文の信頼性を検証しなくてはならない点が問題となり得る。 正直なところ、研究者間での常識や熟練度の違いにより、公開したデータの誤解や誤用が非常に懸念されます。基本的には自分で出来て、リスクも引き受ける気のある方が自主的にされるのが良いと思います。 生データの保存に関する法的整備は必要であると思います。 生物学の研究で大量のデータを得ることが目的の研究以外では、個別のデータを公開することに意味がないように思います。 データ自体が定性的、相対的であるし、研究材料も育成方法も、実験手法も、データ取得に用いる機器も違う以上、論文にならなかった情報で、他の研究者が適切に利用できる情報はないと思います。 全ての言葉の定義を網羅的にして,論文やデータの公開,オープンサイエンスについて説明してくれる(htmlやpdfではないわかりやすい)Webサイトがあると,理解が進むと思う. この今回のアンケートの説明(定義の説明など)は比較的わかりやすかった. この応用で作れるのではないか. 多すぎるデータの公開はデータの再利用が困難であるため,公開していない状態よりもリソースを使っている分,問題として大きい。メタデータをつけるという最低限の処理だけでなく,どの程度までサマライズされたデータであれば利用性が高いかなども指針としてあると有益と考えられる。 公開データが(公開にかかる手間やコストを費やしたとしても)次の科学技術の進歩を加速するという分野から率先して,無理の少ない領域から進めていくのが好ましいと考える。 退職して研究は止めたので、現状は不明で、回答できない項目が多い。 知らない文言がある程度あった。質問に答える前にもっと解説が欲しい。 中途半端なオープンは問題を増加させるだろうから、やるなら、完全オープンが望ましい。関係者の倫理感が重要だが、完全オープンなら不正も表面化しやすく、個人や組織の責任も増すだろう。 投稿論文で必須となることが促進には最もつながると思います 同じようなデータベースが乱立していたり、古いのがあったり、最新のがどれか分からなかったり、ルール作りが大事かと思います。 特許関係などにかかわる場合、オープンにするまでの期間が長く、そのタイムラグに違和感を感じることがある。 特許等の問題がない限り、基本公開にすべき。 特別な手続き無しに、手軽に論文のデータを入手できるようになれば、是非利用したいと思います。 日本のコミュニティでデータベースのポータルサイトを作成してもらえると,海外における日本のデータの利用頻度があげられるのではないかと思っています. 日本は、成果公開を通じて世界に貢献することに関心が低いと思う。 国の機関が自身の利益にこだわりすぎて、個人の名誉や世界への貢献を後回しにし、また、個人の努力によるアイデアや発明に対して、すべてを所属機関の知財に囲い込む傾向が酷い。 そのため、日本では、オープンソース、オープンデータが発達しないように思われる。 データは、利益は薄く、かつ広範に普及することで威力を発揮するのは、半導体に似ているが、多くの組織が、小さいシェアで高収益を狙うために、世界の孤島となっているように思える。 分野や研究内容によって、あるべき姿は大きく異なる。論文のインパクトファクターの話も同様だが、そのような多様なあり方を無視して広い意味での何らかの権力が一方的に研究者に何かを強制することはあってはならない。 毎日膨大な論文が発表されている中で、それらをオープン化するというのは正直ナンセンスだと思っている。学術誌の商業化に苦言を呈する方も多いが、資本主義なのだから学術が商業に利用されるのは至極当然であろう。 日本の研究費は基本的に有名教授・有名大学への集中であり、その辺りの研究者が全てオープン化できないものを、より少額の研究費でやりくりする地方大や若手研究者に求めることがズレている。例え、金持ち研究者が全てオープンにするようになったとしても、貧乏研究者には到底無理な話である。例えば、文科省やJSTが完全に管理運営できるような世界的有名学術誌が登場でもすれば話は別かもしれない。 有効活用が期待されるデータについては共有した方が良いと思うが、単なる証拠としてデータをすべて保存することは、研究者への負担が大きいため(公開可能な形でデータを編集して説明文をつける労力、誤解や失敗を区別したり説明する労力、誤解に基づく指摘に対応する労力、専門知識の有無を問わず第三者が介在する場合には意思疎通に要する労力など)、賛成しない。 利用する側も提供する側も、性善説による場合とそうでは無かった場合で、回答が異なると思います。分野によっても、研究の競争環境が異なり、多面的な評価が、大変難しいように思います。 利用許諾の手続きが簡単になるよう標準化してほしい 論文のオープンアクセスに関してはもちろん知っていましたが、データの公開に関しては知りませんでした。(データの公開という観点では、ケンブリッジ結晶構造データベースは知っていました。)測定手法などが確立した分野ではオープンサイエンスは可能だとは思いますが、新たな測定手法などデータの場合、保存、公開には、再利用(検索)可能な形でどのように行うか、技術的、資金的な問題が大きいと感じました。 論文のオープンアクセスは推進されるべきだと思います。 データについては、興味のある研究者との間で個別にやり取りされるべきものかと思います。 論文のオープンアクセス化に関しては大賛成である。論文として発表する前にオープンにすることについては、reviewプロセスを経ていないので、データの信頼性に問題が残ると思われる。 論文の投稿には、投稿雑誌のインパクトファクターによって、一定の信頼度がある。現状、オープンな雑誌はインパクトファクターが低く、信頼度が低いため、投稿も引用も少ない。今以上のデータの公開は、不必要である。 論文の有料化はできるだけ安くなるような方策が望まれる 論文はオープンアクセスの方がよい。 論文もデータも公開すべき。 学術論文の商業出版の横暴は目に余る。 論文やデータの公開,オープンサイエンスの考えは重要であるが、 一律に同じ規定で適用できるかどうかは難しいのではないかと思う。 論文やデータの公開があると便利だと思いますが、引用・転載時のルールをきちんと守られる前提でないと公開したいと思う人は少ないのではないかと思います。 論文やデータの公開は個人的にはしたくなく,する場合には任意にすべきだと考える. 論文やデータの公開は重要であり今後も進んでいくと考えられる。実際、CSの分野では(CS分野の特権であったが)デジタルデータをネットワーク上に公開する文化は1980年代(私の知っている限りなのでもっと以前からある可能性も高い、例えば画像処理のデファクトスタンダードとなっているLena画像は1972年発行の雑誌を1973年にUSCの学生がスキャンして公開したものである)からある。 将来、数学以外の他分野(CS以外)で論文・データ公開に伴って問題となるであろうことは、公開された論文・データの質・確かさの判断が難しいことであろう。これはCSなどある程度数学で確かめられるかつ歴史的に公開デジタルデータの品質ランクがある程度固まっている(ACM,IEEEなど)分野とは異なるためである。したがって、データ検証のコンセンサスをどの様に確立するかがkeyとなる。一方、数学・CSとは異なり、自然科学・工学のデータは、まったく逆の結果を含めて刷新されることが多い。それゆえ、あまり評価の形式や方法を固定しすぎるのも新たな問題を生むであろう。 論文やデータを公開する場合、その管理や漏えい性をキチンと議論し、公的な機関(公的な機関から委託されている企業)で一括して行うことが望ましいと考えている。現状では、私が登録している”Research Gate”のように、民間企業で行われているので、どのようなポリシーで行っているのかが分からない。やや不安である。